直方のペリカン
2020年4月5日 主の受難
マタイによる福音書26章14節~27章66節
先週初めて直方教会の礼拝に出席させていただきました。とても美しい礼拝堂ですけれども特にこの聖壇の布(次のページに写真があります)が目に留まりました。ペリカンの刺繍がしてありますね。実際のペリカンはもっとくちばしが大きいですが、教会では白い鳥がひなに餌を与える構図のものはまとめて「ペリカン」と扱います。こういう布に使われているのはあまり見たことがないですけれども、ペリカン自体は非常に伝統的なキリスト教のシンボルです。私たちがよく目にするシンボルには子羊とかぶどうの木とか鳩とか、そういうものがありますね。あんな感じでペリカンも会堂の装飾などによく用いられてきました。
鳩が平和や聖霊を象徴するように、ペリカンのモチーフはイエス・キリストを、特にイエス様の自己犠牲の愛を表します。よく見るとこの胸の部分から血が出ているんですけれども、ペリカンは自分の胸を切ってそこから出た血で自分の子どもを養うという伝説がありました。(まあ、実際には魚とかあげてるみたいですけど…。)そういうわけで、中世以降のキリスト教徒たちは、ペリカンが餌をやる姿に、自らが流された血をもって私たちを生かしてくださるキリストを思い浮かべたのでした。
昔の人のこういう世界観って本当に信仰深いなあと思います。今の私たちなら、どうでしょうか。ペリカンは自分の血で子どもを養うと聞いて、例えば動物に詳しい人なら、大自然の厳しさみたいなものを想像するかもしれませんし、家族が一番大事と思っている人なら、母親とか保護者の愛の偉大さみたいなことを語りたくなるかもしれません。しかし中世のキリスト教徒たちがこの変わった鳥を通して見たのは、キリストの愛でした。ペリカンの親鳥に、イエス様を、自らが血を流すことによって私たちをあがなってくださったイエス様を重ね合わせ、そしてこのひな鳥に、親鳥の血を当然のように、我先にと受け取って、大きくなっていくひな鳥に、私たち人間の姿を重ね合わせたのです。
ペリカンの子どもたちは、親鳥の血がなければ生きていくことができません。しかし一方で、生きるのに必死で、親鳥の自己犠牲のありがたみに思いをはせることはありません。当然のように餌を受け取って、もっとくれもっとくれと言って、いつか親鳥に養ってもらっていたことを忘れていってしまう。それは私たちも同じではないでしょうか。イエス様の犠牲、イエス様の愛によって救われたことを忘れて生きているのです。
今日は主の受難(受難主日)の礼拝です。まさに今日、私たちは、イエス様が私たちにとってペリカンの親鳥であることを再び思い起こすように招かれています。イエス様が私たちのために血を流され、私たちのために死なれたことをこの日改めて知るのです。聖書はイエス様の受難の物語を語ります。福音書の朗読を通して、イエス様が裏切られ、罪もないのに捉えられて、不当な裁判にかけられ、侮辱されて、暴行された上に、十字架という残酷な手段で処刑されたということを私たちは聞きました。
イエス様が死なれた時、イエス様は犯罪者として、神を冒瀆する者として、罪人として、処刑されました。受難の物語の中で人々はイエス様に「ユダヤ人の王」「神の子」と呼びかけますが、それはイエス様が神の子だと心から信じていたからではなくて、イエス様を侮辱するためでした。本当は神の子でもなんでもないくせに、神の子のように振る舞ったから、お前はこんな目に遭うのだと言わんばかりでした。
イエス様は人々の間でひとりぼっちでした。イエス様に従ってきた弟子たちはみんな逃げてしまいました。かつてイエス様を喜んで迎えた群衆は、今度はねたみからイエス様を十字架につけろと叫んでいました。そうやって、イエス様は人々に唾を吐きかけられ、殴られ、鞭で打たれ、最後は手と足をくぎで打たれて十字架につけられました。
その間ずっとイエス様は沈黙しておられました。イエス様はゲッセマネの園でひとり「この杯をわたしから過ぎ去らせてください、できることならわたしをこんな目に遭わせないでください」と神に祈られていることからも、イエス様は決して喜んで十字架にかかられたというわけではないでしょう。しかしイエス様は、神の子として、最後まで神の御心に従い、十字架の苦しみを忍耐されたのです。残酷さと孤独。苦しみと忍耐。イエス様の犠牲。それが、私たちが今日聞いた物語です。
どうして私たちは、毎年毎年、このイエス様のご受難の物語を、こうしてわざわざ集まって聞くのでしょうか。それはイエス様が私たちのためにこれらのことを耐えられたということを繰り返し受け取るためです。この物語が、私たちのため、私たちの罪のゆるしと、救いのために起こったということを忘れないようにするためです。
イエスがこのほかでもない私、ほかでもないあなた、を救うために十字架で死なれたということを思うとき、私たちははじめてそれを救いの出来事として受け止めるようになります。十字架によって、イエスが私たちの罪をあがなってくださったということ。私たちは罪人であって、本来私たちが負うべき責めをキリストが肩代わりしてくださるということ。そして、キリストの十字架によって、私たちは罪と死の代わりに恵みと慰めを受け取ることになったということ。この神の愛を、私たちはこの悲惨な物語の向こう側に信じているのです。
イエス様がただ死なれたなら、それはただの悲しい事件です。しかしイエスが私のために死なれたなら、それは私の救いです。イエス様が私たちのために、苦しみ、死なれたことを今日再び思い起こしましょう。この直方のペリカンの向こうに、こうして血を流してまで私たちを愛してくださるイエス様と、その血によって生かされている私たちを見たいと思うのです。
イエス様はこのペリカンのように、血を流し、死なれました。そして今、復活を待つ間、イエス様は傷だらけの体で墓に納められています。来週はイエス様が死から復活されることを祝うイースターです。それまでの間、今日の受難の物語を心におさめて、復活の日を待ち望みたいと思います。