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からし種一粒さえ

ルカによる福音書17章1-10節

17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

「私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」

聖書には、イエスの生涯について記された「福音書」が4つあります。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書です。

この中で、「マルコ福音書」が最も古く、紀元70年頃に書かれたと言われます。内容は簡潔で、イエスの誕生については記されていません。「マタイ・ルカ福音書」は80年頃に書かれたと言われます。マルコ福音書を参考にするだけではなく、別の伝承も組み込まれています。「ヨハネ福音書」の成立は100年以降と言われ、先の3つとは異なり、抽象的な言葉の多い独特な福音書です。

熱心なキリスト者は言います。「聖書は、聖霊なる神が人に働きかけ書かれたのだから、一言一句すべて正しく間違いがない。」と。しかし、人々はマルコ福音書が伝えるイエスの生涯だけでは満足できず、その誕生や復活後について知りたかったのでしょう。また、自分なりの書き方でイエスの生涯を伝えたいと願う人々がいたため、幾つもの福音書が執筆されたのだと考えられます。

ルカ福音書の初めには、こうあります。「物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」(1:1-3)と。使徒パウロの旅に同行した者として、自分こそ正しく内容を書くことができると、著者ルカが考えていたことが分かります。医者の視点から、子どもと女性にも注目しているため、当時では画期的な記録だったとも言われます。

イエスの生涯と言葉は、各福音書によって伝えられています。しかし、それらは著者それぞれの想いによって組み立てられた一つの作品です。当時の教会の信条や信仰告白が影響しているからこそ、イエスが伝えようとされた真の神の言葉が何であるかを、注意深く聴く必要があるのでしょう。

本日は、ルカ福音書が伝える、イエスが弟子たちへと語ったとされる言葉を聴いてまいります。

「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい」(17:3)。

神に従おうとする小さな者をつまずかせ、その道から離れさせるような者の罪は重いと語られています。

これは弟子たちへと語られたと書かれていますから、「小さな者」とは、キリスト教会に居る者を指すのでしょう。その場合、つまずきをもたらす者とは、キリスト教会が伝える教えから外れ、別の教えを語る「異端者」だと考えられます。つまり、「教会の教えに背く者は、集団から排除しなければならない。」という意味になるのです。

しかし、マルコ福音書では全く違う脈絡でイエスは語っています。

「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました』」(マルコ9:38)。

イエスの弟子たち集団以外にも、イエスの名前によって、人々の病気を癒す者が居たようです。弟子たちは自分たちに従わない者の行為をやめさせましたが、イエスは弟子たちを叱り、言われたのです。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。・・・わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(39,42)と。

弟子集団に入ろうとしない「小さな者」を排除するどころか、彼は「味方」(40)だと弟子たちを諭されたのです。

マルコ福音書とルカ福音書では、イエスの言葉が正反対に伝えられています。「毒麦のたとえ」では、実りの時を迎えれば自ずと毒麦か良い麦かは分かると言われています。イエスは、自分たちの輪に入っていない者を排除するのではなく、将来に託されたことを覚えたいのです。

世界には、非常に多くの宗教があります。その中で一つの信仰を持つとは、その宗教の伝える言葉や教えに、何らかの魅力を感じたキッカケがあったためでしょうか。

しかし人の想いは厄介なもので、一つの教えを土台として生きるのですから、自分の信じる宗教が一番良く、間違いの無いものでなければ不安になります。だからこそ、他を排除することによって「安心感」を得ようとするのでしょう。

キリスト教にしても、自己保身のために分裂を繰り返して来たし、カトリックだけを見ても、教会の権威と権力を守るために異端者を抹殺してきました。聖書関連の資料だって、カトリックの神学にそぐわないものは焼き払っていますし、ルター以前の改革者たちは皆、火あぶりにされました…。

信仰とは、人が神に熱心になることではなく、神が人に熱心であることを知らされることです。私たちが神に向かう方向ではなく、神が人に迫ってくる方向であることが重要なのです。方向が違う時、排除や排他的な副作用が出てきてしまうのです。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(17:6)。

私が桑に命じても、海に根を下ろしに動き出すことはありません。つまり、砂の一粒ほどの信仰も私の内には無いということです。だからこそ、私たちはすぐに不安になり揺さぶられます。

しかし、イエスは「神はあなたがたと共におられる」と約束されました。私たちの内に信仰が見つからずとも、神の熱意は変わることなく、今も私たちへと向けられている。だからこそ、私たちは誰かを排除することで一時の安心を手にする必要はない。神によって働きかけられている者として、自らの現在を、これからの歩みを神に託したいのです。

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン」

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