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父と子と聖霊

ヨハネによる福音書16章12-15節

16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日は、『三位(さんみ)一体(いったい)主日』です。「三位一体」とは、紀元200年頃のキリスト教会が、ひとりの神で在りながら3つの働きをされる「神」のことを表すために作られた言葉です。

礼拝では、「父と子と聖霊の御名によって」という言葉を聴いたり唱えたりします。とは言え、「父」と「子」と「聖霊」と呼ばれる3つの神々がおられるわけではありません。神は、「父」と「子」と「聖霊」という3つの姿を通して人間に関わられる方なのだと、キリスト教会は語り継いできました。3つの異なる姿を持つ神を、「三位一体」の神と呼ぶのです。

三位一体と言われても、神がどのような方で、私たちへとどのように関わられるのかはイメージしにくいものです。実際にその姿は見えず、直接声を聴いたり、触れることもできないからです。だからこそ、聖書の告げる神について聴きたいのです。

では、3つの働きそれぞれに注目してみましょう。

「父」とは、『旧約聖書』に描かれる神の姿です。

父は、世の初めからおられ、天地創造を果たされ、また、歴史に関わり、ご自身がお造りになった人間を守り、生かされたと聖書は伝えます。その一方で、時に「嫉妬深い神」と表現されるように、背く者には厳しい審きを下し、命を絶たれる一面も描かれています。

神は人との間に、「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」(レビ26:12)という契約を結ばれました。しかし、民は背き、神より離れ去ってしまう。その度に、神は民を審かれますが、再び自らの民を守る決意をされるのです。この繰り返される歴史が『旧約聖書』には記されています。

「子」とは、『新約聖書』に描かれるイエス・キリストを指します。

3年という短い旅の中で、イエスは様々な人たちと出会われました。中でも、社会から排除された人々との出会いが数多く伝えられます。

その生涯のクライマックスは十字架です。世の権力に従わず、旧約聖書の『律法』とは異なる神の心を語り、人々を惑わす罪人とされたのです。

イエスは十字架の後、三日目に復活し、神のもとへ帰られたと聖書は伝えます。イエスの十字架によって全ての人の罪を神が引き受け、さらに、死の先に用意されている命があることが告げたのです。

「聖霊」とは、イエスの昇天後、世に遣わされた聖霊を指します。

聖霊は、一人ひとりに留まる神の働き、つまり包み込む方です。聖霊を意味する「プネウマ」というギリシャ語は、「風」、「心」、「精神」とも訳すことができます。

聖霊は、時に私たちをあらゆる出来事や出会いの場へ導き、また、引き回す方です。私たちに聖書の言葉を悟らせ、語るべき言葉をも与えます。風のように目に見えなくても木々の枝が揺れればわかるように、確かにそこにおられ、常に私たちを外側から包み込む存在だと聖書は伝えます。

神が、もし天地創造の父としての姿のみで関わられたならば、私は真っ先に審かれ、命を絶たれることでしょう。人々は『旧約聖書』を手にしていながら、イエスの時代に至るまで神に代わって互いに裁き合いました。同じように、私自身も自分か他者を裁く者となってはいないかと思うのです。

しかし、正しさと悪、恵みと審き、救われるか見捨てられるかは、神のみが語り得るものでありましょう。だからこそ、神の領分にまで踏み込もうとする人々の誤解を解くために、神は人(イエス)の姿で、この世に来られる必要があったのではないでしょうか。

イエスの生き様によって、神が審きという手段ではなく、私たちを生かす道を選ばれたことを知らされます。馬小屋という過酷な環境で生まれ、罪人の一人として数えられ、十字架へと追いやられたイエス。しかし、この方が人間の病と痛みを背負われたからこそ、私たちがそれぞれに負う重荷を含めたこの身の全てを、神へと委ねることができるのです。

また、イエスは人となられた以上、死も引き受けられました。そして、復活を果たされたイエスは、ひとたび昇天されます。それでは、イエスがおられない時代を私たちは生きなければならないのか。そうではないでしょう。神は、イエスとしての活動を終えた後に天に帰られ、次に聖霊としての姿で再び世に降られたのです。それは、イエスとしての時代だけではなく、今後如何なる時も私たちと共にあるためだったと受け取れます。

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハネ16:13)。

「三位一体」とは、確かに理解することが難しい言葉です。しかしそれは、神が姿を変えてまでも、より私たちの近くに、より身近な存在となってくださるための証しであると思います。

神は、天地を造られる絶対的な身分を捨て、人と成り、この世界を生きられた。そして、ついには聖霊としての姿を取り、時代を超えて、今の私たちと共におられる。この生きて働かれ続ける姿に、私たちに対する神の愛を見るのです。

古くから人は、神や天国へと一歩でも近づこうと努力してまいりました。神が高みにおられるならば、近づくことはできません。しかし聖書は、神自ら私たちのもとへと近づかれる方だと告げます。イエスが十字架で痛みの底に立たれがゆえに、たとえ人が苦しみの深みに落ちようとも、神はあなたの居る場所に来られることを信じます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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