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聖霊

ヨハネによる福音書16章4b-11節

16:4 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。 16:5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。 16:6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。 16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。 16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 16:9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、 16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、 16:11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

キリスト教会の三大祭りは、クリスマス(降誕祭)、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)です。

「クリスマス」には、マリアという女性の前に天使が現れ、イエスを身ごもったことを告げられ、実際にその誕生を目の当たりにしたという出来事を聴きます。「イースター」には、十字架刑で死んだはずのイエスが、三日目に復活したと言われる。そして、「ペンテコステ」には、イエスが天に帰られた後、弟子たちのもとに遣わされた聖霊について語られます。

いずれも、私たちの現実とはかけ離れた、言わば受け取りにくい内容と言えます。しかし、この三つの出来事を繋ぐ「イエス・キリストの生涯」こそ、私たちの人生と密接に関わるのです。

神は人(イエス)として、この世界に来られたと、聖書は伝えます。神は、この世でどのような活動をされたのか。そこで、どのような人々と出会われたのか。

羊飼い、外国人、世捨て人のグループ、漁師、罪人と呼ばれる者、徴税人の頭と下っ端、ユダヤ教過激派グループに属する者、権力者、宗教指導者たち、病人、子ども、夫を失った女性など、立場や職業に関係なく、目の前に居る人々と、イエスは出会われました。まさに社会の縮図です。特に、イエスが関わられたのは、社会的に力を持たなかった人々、援助を受けられないまま放置されていた者たちでした。

イエスは彼らの手を取り、「一緒に生きよう」と招かれました。親密の証しである食事を共にすることで、周囲から罪人の一人として数えられても、気にも留められませんでした。時に彼らに言葉を語り、時に癒やしを手渡されました。その生き方を貫くことで、最期には「神を冒涜した」という理由で、十字架によって処刑されたのです。

宗教では神の掟が語られますが、守れなければ審かれるだけなのか。そうではない。正しく在ることが出来ない、ルールの枠から外れてしまった者と共に生きるイエスの姿こそ、神の想いそのものでありましょう。私たちは、まず、このイエスの姿に救いを見るのです。

この世界に宗教があるのは何故か。私たちには、答えの出せない問題があるためです。生まれた理由、生きる理由、死ぬ理由。死の先に何が待ち受けるのかも分かりません。イエスの生き様に惹かれる私たちだからこそ、聖書に記される出来事を受け取り、考えたいのです。

本日は、「聖霊降臨祭」です。イエスの復活から数えて50日目であるため、50番目を意味する「ペンテコステ」とも呼ばれます。

先週、復活されたキリストが、弟子たちのもとを去り、天に帰られた出来事を聴きました。ヨハネ福音書には、次のようにあります。

「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(16:7)。

人となられた以上、いつかは死ななければなりません。だからこそ、限界ある命での役割を終えられた神は、天に帰られたのでしょう。その後、弟子たちは神なき世を生きていかなければならなかったのか。そうではありません。「弁護者を送る」との約束通り、今度は「聖霊なる神」が彼らのもとに来られたのです。

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:2-4)。

聖霊なる神が、弟子たち一人ひとりを外側から包まれた(満たした)ことで、彼らは各地の言語で、イエスについて宣べ伝える者となったのだというのです。出来事だけ聴くならば信じがたい状況ですが、要するに「弟子たちによって、イエスの歩みとその言葉が、世界各地に伝えられるようになった」ということです。ここから教会という共同体が生まれたため、ペンテコステは教会の誕生日とも言われるのです。

キリスト教会では、神を「父と子と聖霊なる神」と表現します。天地創造の父、人となられたイエス、一人ひとりを外側から包む聖霊。これは、一人の神の3つの姿なのだというのです。

しかし、ルーテル教会の礼拝では、主に「福音書」の内容を聴きます。福音書に書かれているのはイエスの生涯ですから、天地創造の父、聖霊についてはあまり語られないと言えます。

神は、聖霊としての姿で、私たちにどのように関わられるのか。パウロという人物は、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)と語っています。

私たちが「聖書の言葉を聴き、神を信じるようになる」とは、聖霊が私たちへと働きかけてくださっているしるしなのだというのです。

また、聖霊なる神は、私たちの内面にのみ働きかける方ではないようです。聖書には、イエスが荒れ野で悪魔の誘惑を受けられた出来事を伝えています。その際、聖霊がイエスを「送り出し」(マルコ1:12)、「導かれ」(マタイ4:1)、「引き回され」(ルカ4:1)たのだというのです。

イエスの十字架の出来事の後、弟子たちは人々に捕らえられることを恐れ、身を隠しました。しかしそのような彼らが、聖霊に包まれた後、各地を旅してイエスの生涯を宣べ伝える者へと変えられました。つまり、私たちが好む好まないにかかわらず、聖霊は必要な場へと私たちを引き回し、遣わされる方でもあるのだというのです。私たち一人ひとりが聖霊に包まれているならば、「誰かと出会う」という出来事もまた、聖霊の導きと考えられましょう。

人々へ洗礼という儀式を行った「洗礼者ヨハネ」は言いました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と(マルコ1:8)。

聖霊は、神を信じていない段階から私たちを包み、聖書の言葉を届けてくださった。「洗礼」とは、この聖霊が共におられることを、改めて知らされる出来事でしょう。姿は見えずとも、私たちは聖霊なる神の内に生き、互いに結び合わされる。どこに引き回されようとも、私たちが聖霊から引き離されることはないのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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