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栄光とは

ヨハネによる福音書13章31-35節

13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日も、先週に引き続きヨハネ福音書の内容を聴いてまいります。

イエスの弟子の一人に、「イスカリオテのユダ」と呼ばれる人物が居ます。イエスとの旅の中で、彼は会計係をしていたようです。ある程度の信用がなければ、お金や荷物の管理を任せることはありませんから、他の弟子たちよりも、きちんとした性格をしていたのでしょうか。

しかしながら、彼はそのような良いイメージとしてではなく、憎むべき悪党として今日に至るまでその名を知られています。それは、彼がわずかな銀貨と引き替えに、イエスを人々に売り渡したと聖書で伝えられているからです。

「ユダが裏切ったためにイエスは捕らえられ、十字架にかけられた。」ユダがイエスの死の原因と考えたからか、福音書の著者たちは彼がいかに罪深く、愚かであったのかを記しています。各福音書で内容は異なりますが、「ユダはイエスを裏切った後、悔いて銀貨を神殿に投げ入れ、自ら死を選んだ」とか、「銀貨で買った土地で、むごい死に方をした」など、イエスを裏切った罰を受けたかのように、散々に書かれています。

しかしヨハネ福音書では、少し違った視点でユダの行動を描いているのです。

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。……わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』……。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。……ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」(13:21,26,27,30)。

キリスト教会にとって最も重要な福音(良い知らせ)とは、イエスの「復活」です。「ユダが裏切ったためにイエスは捕らえられ、十字架にかけられた。」とは、裏を返せば、「ユダの裏切りがあったことで、十字架に続く一連の出来事が起こった」ということです。復活は十字架の死を経て果たされた。イエスの逮捕も、ユダの裏切りを経て起こった。つまり、復活のためには、ユダの裏切りが必要不可欠だったと考えることが出来るのです。

ヨハネ福音書の著者は、このような視点からか、ユダを「イエスを裏切るという使命を受けた者」として描きました。ここに、神は人の裏切りさえも用い、御自身の御心を果たされる方であるとの、著者の信仰が垣間見えるのです。

「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった』」(ヨハネ13:31)。

なぜ、ユダが出て行く姿を見て、イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。」と言われたのでしょうか。

一切れのパンを受け取ったユダが、自分のすべきことをするために出て行った。イエスをどこで待ち伏せし、捕らえることが出来るのかを、殺害を目論んでいた者たちに伝えに行ったでしょう。御存知の通り、この後捕らえられたイエスは痛めつけられ、裁判を受け、十字架に磔にされます。そして、この十字架の死を経て、ついに復活が果たされることとなるのです。

ヨハネ福音書の時代には、迫害によって多くのキリスト者が殺されていました。復活を信じて死んでいった仲間がいる。中には、何故死ななければならなかったのかと無念に思わずにはいられない善人も居た。「現実では苦難の中で死を迎えたけれども、死の先で彼らが報われないはずがない!」と期待するのは当然です。迫害の時代の中で、人々は「死の先に用意された命」に希望を見出したのです。

「復活」に救いを見る時、イエスの十字架の「死」の意味は逆転します。死が全てのものからの「断絶」ではなく、復活に至るために必ず通らなければならない「門」、「通過点」に変えられるのです。

ユダが出て行ったのは、イエスが別れの前に弟子たちに多くの言葉を遺された「最期の晩餐」の最中でした。この時には、まだ何も起こっていません。しかしユダが出て行ったことで、ついに復活に至る道が「確定した」。だからこそ、イエスが「今や、人の子は栄光を受けた。」と、すでに神の御業が果たされたかのように言われたのだと受け取りたいのです。それは、未来に与えられるであろう神の恵みの「先取り」です。

私たちは教会で、それぞれの生活の場で祈ります。その内容は様々ですが、それを語って良い、お願い出来る相手が居るということは、非常に心強いものです。私たちは、誰であり、どんなことをしてくれるのかも分からない神にではなく、私たちを知り、この身を最期まで引き受けてくださる方に祈ります。この神との深い関わりを知らされるからこそ、神が祈りを必ず聴き届けてくださるに違いないと、「信じて待つ」ことができるのです。

祈らずにはいられない、祈るほかない状況の只中で、信じて待つことは出来るとは、この上ない励ましです。つまり、祈ったその時、既に先に待つ神の恵みを、私たちは先取りするのです。

イスカリオテのユダについて、マルコ福音書では、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(14:21)とまで、イエスの言葉で語られています。

しかし、続く内容で次のようなエピソードも記されているのです。

「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け』と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した」(14:44,45)。

接吻は親愛のしるしなのだそうです。裏切りの合図と知りながらも、イエスはそれを拒まれませんでした。ここに、ユダを受容するイエスの姿を見るのです。

それは、ユダだけではない。ことあるごとに心揺れ動き、神より離れる私たちを受け入れられたことの証しです。神は、私たちと共に生きる命を、御自身の栄光として受け取られたのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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