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声を聞き分ける

ヨハネによる福音書10章22-30節

10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 10:30 わたしと父とは一つである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリスト(「救い主」という意味の称号)から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日は、ヨハネ福音書の内容より聴いてまいります。

「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」(ヨハネ10:22)。

紀元前165年、シリアのセレウコス朝(外国)に征服され、異教の神の祭壇とされてしまったエルサレム神殿を、マカバイ兄弟(ユダヤ人の先祖)が奪還し、再建しました。このことを記念し、毎年お祭りが行われました(現在の12月25日にあたるそうです)。

『新約聖書』の他の福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、イエスは十字架にかけられる際の一度のみ、都エルサレムを訪れたかのように描かれています。しかし、ヨハネ福音書では、色々な祭りが行われる度に、幾度もイエスが都エルサレムを訪れたと伝えられています。

「イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊(柱廊)を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』」(10:23,24)。

後に、イエスを十字架に磔にすることとなるユダヤ人たちは、イエスを捕らえ、処罰するための粗探しをしたかったのでしょう。敵対心を露にしてイエスに突っかかる者たちの様子が、幾度となく描かれています。

「イエスは答えられた。『わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う』」(10:25-27)。

揚げ足を取ろうとする者たちに対して、「わたしと父とは一つである。」(30)と、イエスは自分の立場をハッキリと表明されます。神と御自身とは、分かちがたい関係にある。この返事によってユダヤ人たちは怒り、イエスを石で打ち殺そうとするほど緊迫した状況に陥ることになるのです(31)。

本日は22~30節ですが、10章では、他にも羊をテーマとした内容が幾つか見られます。

当時の羊飼いは、共同生活をしていたようです。周囲を囲むように羊飼いたちの家が建ち並び、羊が野獣や盗賊に襲われないように、夜中にはその中庭に皆の羊を集めるのだそうです。(自宅を持てない貧しい雇われ羊飼いも居たでしょうけれども…。)

イエスは、御自身を羊が出入りする「門」と表現されました。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである」(10:1,2)。

家々の間には塀があり、出入口が門だけならば、他の場所から入るのは盗人に違いありません。羊は目が悪いぶん耳が発達しているのか、自分を青草の元まで導く羊飼いの声を聞き分けるそうです。夜は全ての羊が中庭で過ごし、朝になって羊飼いの呼び声が聞こえると、それぞれの飼い主の元に羊が向かう。そして、門をくぐって外のえさ場まで導かれていく。非常に牧歌的な光景です。

イエスという門をくぐりつつ生活するように、イエスに聴き従い生きるように招かれているのでしょう。

もう一つ、イエスは御自身のことを「良い羊飼い」と表現されました。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」(10:11,12)。

雇われ羊飼いにとって、野獣と出くわした際、自分と羊たちの命を天秤にかけるならば、生きるために逃げ出すのは当然です。しかし自分の羊を持つ羊飼いにとって、羊は財産そのものです。また、共に生きる中で個々の羊の名を呼べるほど関係は深くなる。無くてはならない存在(羊)のためであれば、命がけで野獣と戦うことでしょう。

イエスの死後、弟子たちは多くの派閥に分かれます。ヨハネ福音書が書かれたのは、迫害の時代です。自分たちの傘下に入らない者のためには行動せず、迫害の現状を見て見ぬふりをする弟子たちの様子を、ヨハネ福音書の著者は見ていたのでしょう。人が守れるのは手を広げられる範囲の人々であり、全てを救うことは出来ません。それは、多くの教派に分かれて互いに競い合っているならば、現代の教会も同じだと言えましょう。

しかしイエスは、中庭の羊たち、そして「囲いに入っていないほかの羊」(16)のためにも命を捨られる「良い羊飼い」なのだというのです。弟子たちも、揚げ足を取ろうとするユダヤ人たちも、他の神々を信じる異邦人も含め、イエスは御自身の羊と考えておられることが分かります。

「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる」(10:16,17)。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(10:27,28)。

良い羊飼いは、羊を命がけで守る。同じように、十字架の出来事とは、私たち一人ひとりが永遠の命を受け取ることができるように、キリストが命を捨ててくださったしるしなのだというのです。

永遠の命とは不老不死ではなく、死の先に続く命。死によって終わることのない、神と結ばれた命だと言われます。生きている今、私たちは神に片棒を担がれながら生きている。一人では背負えない痛み、悲しみ、苦しさを担われることで生かされています。この神との関係は、死によっても断ち切られることなく続いていくことを、キリストは復活によって証明してくださったのです。

私たちには神のおられる場所は分かりませんが、羊飼いであるキリストに聴き従う限り、私たちが道に迷うことはない。だからこそ、その声を聞き分けるように、今、招かれているのだと受け取りたいのです。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(10:27)。

私たちは、キリストに知られている。名前を呼ぶほど関係は深く、まさに命を捨てる覚悟を持ち、私たちを御自身の羊として引き受けてくださっているのだというのです。この方にこそ、この身を委ねたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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