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キリストの十字架

ルカによる福音書23章32-56節

23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。 23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。 23:50 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、 23:51 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。 23:52 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、 23:53 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。 23:54 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。 23:55 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、 23:56 家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日は、「受難主日」と呼ばれます。「イースター(復活祭)」の直前の日曜日に、イエス・キリスト(救い主という意味)が十字架に磔にされ、死なれた出来事について考えます。

聖書には、福音書が4つあります。このうち、マルコ福音書が最初に書かれたものだと言われます。けれども、その内容が簡潔すぎたためか、後に多くの著者がそれぞれにイエスの生涯を書き記していきました。その中からマルコ福音書と共に選ばれたのが、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書です。

これまでにルカ福音書の言葉を聴いてきましたが、最初に書かれたマルコ福音書の内容との違いに気づかされます。本日のイエスの十字架の死の場面にも、明らかな違いがあるのです。

「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」(ルカ23:44-48)。

侮辱と暴力、十字架の横木を背負わされ、丘の上で磔にされたイエスは、その命が尽きる直前に叫ばれました。その最期の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」だった、とルカ福音書は伝えています。

では、マルコ福音書には何と書かれているのか。

「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。……『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』」(マルコ15:33,34)。

ルカ福音書とは真逆の内容です。イエスのこの最期の叫びを、一体どのように受け取れば良いのでしょうか。

同じように「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」という言葉から始まる詩編22編は、最後には神への賛美で結ばれています。分かる人には分かる『旧約聖書』の言葉を叫ばれたのだと言う神学者がいます。

ただ、救い主が死ぬ直前に言ったとは思えない言葉です。そのためか、ルカは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という言葉に書き換えたのでしょう。確かに、神に熱心に従う者は、死ぬ間際には神への絶対的な信頼を語りたいものです。ルカの時代の教会でも、同じように考えられていたのでしょう。

しかし、受け入れがたいとしても、死ぬ間際、極限の痛みの中で叫ばれたイエスの言葉を聴かなければなりません。十字架に磔にされる前夜、イエスは次のように祈られました。

「『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』……イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22:42,44)

神の与える杯とは、各々が飲むべきもの。つまり、代わることの出来ない自分の命でしょう。イエスは、先に待つ十字架の死を取りのけて欲しいと願いつつも、神の御心が果たされることを望まれました。死ぬことは恐ろしい。痛みから救い出してほしい。死の間際に語られた、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」とは、耐え難い痛みを背負われたイエスの呻きでありましょう。

ルーテル教会の牧師であり、非暴力を志つつもヒトラーの暗殺を企て、失敗して処刑されたディートリヒ・ボンヘッファーという人物がいます。彼は、イエスの最期の叫びについて、次のように語っています。

「十字架において神から見捨てられた只中で、イエスは『わが神、わが神』と信頼をもって呼びかけている。」

(ボンヘッファーを読む 反ナチ抵抗者の生涯と思想 1995年 岩波書店/P.182)

最期に絞り出された「なぜわたしをお見捨てになったのですか」との言葉を、イエスは一体誰に語っているのか。自らを捨て、その場におられないはずの神へと、なお「わが神、わが神」と呼びかけておられるのです。つまり、神がおられないとしか思えない状況下で、しかし、そこに神がおられることをイエスは教えられたのだと、ボンヘッファーは語るのです。

私たちが生きる世に、神の姿は見つかりません。語りかけてくださることも、直接触れて癒やしてくださることもない。神には、私たちを癒やし、救ってくださる力があると信じているからこそ、何故そうしてくださらないのかと思わずにはいられません。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」とは、私たちの呻きでもあるのです。

私たちは、きれいごとでは済ますことのできない、イエス・キリストの十字架の出来事を聴きます。その弱く無力で、傷ついた姿に救いを見るのです。

イエスは十字架を背負い、神に見捨てられた死を引き受けられました。それは、神がおられないかのように見えるこの世の現実を、イエスもまた、私たちと同じく生きられたことの証しです。

神によって与えられた杯、この命を私たちは生きます。突如として、この身を悲しみや苦しさの深みに突き落とす困難が押し寄せることがある。しかし、痛みの底に立たれたキリストだからこそ、私たちがどこに居ようとも、必ず見つけ出し、一人では負いきれない、この人生の片棒を担いでくださることを信じます。

キリストは、取りのけたかったはずの杯(苦難の道)を飲み干してくださいました。私たちは、これほどに想われ、生かされているのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン


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