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なお育まれる

  • jelcnogata
  • Mar 24, 2019
  • 6 min read

ルカによる福音書13章1-9節

13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日は、一つのたとえ話を通して、「神が私たちへとどのように関わられる方であるのか」を教えられたイエスの言葉を聴いてまいります。

社会は、人が集まって形作られます。そこでは、力を得て中心を陣取る者が居れば、他者に支配されたり、周辺に追いやられる人も居ます。その中で、人は自分と他人を比較したり、競争することで、自分が何者であるのかを考えます。

イエスの時代、社会は神を中心に作り上げられてはいましたが、人々は神に問うのではなく、他者との比較を通して、自分の正しさや地位を考えていきました。

特に、「救われるか否か」とか、「永遠の命を受けるに価する者か、そうではないか」という問題に、民衆や指導者たちは関心を持っていたようです。掟を徹底して守る、たくさん献金する、より厳しい断食をする、知識を披露する。様々な取り組みを通して、「誰が神のお眼鏡にかなう人間か」と比較し合い、上位に居る者が権力を手にする社会だったということでしょう。

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」(ルカ13:1)。

エルサレム神殿では、祭壇へと動物のいけにえが捧げられていました。「人間が神の前に死んで償うべきほどの罪を負っている」という理解から、動物の命を身代わりとして捧げたのです。

当時、ユダヤ人の生活圏はローマ帝国の監督下に置かれていました。ピラトとは、ユダヤの総督に就いたローマ人です。横暴な人物として知られていますが、この時、神殿でガリラヤ人を殺し、祭壇に彼らの血を流す事件を起こしたのだというのです。

ガリラヤは、ユダヤ人の生活圏の北端に位置し、そこに住む人々は訛りや異邦人の都市との近さゆえか、ユダヤ人でありながらも神殿付近の人々から一線を引かれていたのでしょう。

ユダヤ人たちは、ピラトに殺害された人々について、どうやら「罪が深かったから災難にあったのだ」と噂していたようです。また以前にも、シロアムという場所の塔が倒れて犠牲になった人々についても、同様に言っていたのだというのです。

「災難が罪人に対する神の裁きだ」と考える時、その裏には、「私は正しい者だから裁きを受けていない」という安堵が生じます。だからこそイエスは、そのように噂する者たちに対して問われたのです。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。……また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない」(13:2,4-5)。

イエスは、罪があるから災難に遭うのでも、罪が無いために災難を免れているのでもないのだと断言されます。そして、一つのたとえ話を語られたのです。内容は、次の通りです。

あるぶどう園に、植えられて3年経っても一度も実をつけることのなかったイチジクの木がありました。主人は幾度も期待を裏切って実らなかったイチジクを「切り倒してしまえ」と、園丁に申しつけました。これ以上、忍耐して待っても無駄でしょうし、他の果樹を植えた方が利益が出るのは間違いからです。

しかし、園丁は答えて言ったのです。

「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(13:8,9)。

誰に対しても、後ろめたいことも負い目もなく生きたいものです。しかし実際に、そのように生きることが出来る者は一握りでしょう。巻き戻せない時の流れの中で、過去の失敗への後ろめたさ、その気持ち悪さを背負いながら、人は生きていかなければなりません。

神は、私たち一人ひとりの全ての歩みを御存知だと聖書は伝えます。私以上に私のことを知っておられる。だからこそ、この世の誰一人として神の前に罪を負っていない者は居ないのだと言われるのです。神に期待されて形造られたものの、その期待を幾度も裏切る人間とはまさに、たとえ話で語られる実らないイチジクの木のようです。

主人の言葉、そして、園丁の言葉とは、いずれも神の思いでありましょう。切り倒してしまいたくなるような人の姿を見て、神は最終的にどのような選択をされるのか。「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」と、なお手塩にかけて育まれるのです。

では、4年目にイチジクの木は切り倒されてしまうのか。そうではないのです。イエス・キリストの十字架の出来事こそ、神が私たちを赦し続けることを選ばれたことの証しなのです。4年目も、5年目も同様の答えを出される神によって、私たちは今もなお生かされていく。ここに神の受容が、そして、それ以上に私たちを喜びたいと願われる神の御旨があるのです。

私たちは何者でしょうか。自分と他人を比較しても、その答えは見つかりません。だからこそ、神に赦され、望まれ、生かされる存在だと教えるイエスの言葉を受け取りたいのです。私たちはキリストと共に生きる。一人では背負いきれない重荷も、キリストが共に担ってくださるからこそ、抱えつつ歩むことができるのです。

「『どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」(エゼキエル18:31,32)。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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