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無力で弱い神

ルカによる福音書18章31-34節

18:31 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。

18:32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。

18:33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」

18:34 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

聖書には、4つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書です。それぞれ別の著者がイエス・キリスト(=救い主という称号)の生涯を描いているため、同じ事柄を扱っても内容には違いや差が現れるのです。

この中でも、マルコ福音書が最も古いと言われています。マルコには、イエスの誕生物語は無く、30歳で旅を始められた段階から書き始められています。また、「墓が空っぽだった」と伝えることで復活をほのめかすものの、復活後の物語は記されていません。

後のキリスト教会の人々は、それではどうにも不十分だと思ったのでしょう。そこで少し後に、マタイ、ルカ福音書が書かれたのです。

ルカ福音書の冒頭には、次のように書かれています。

「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」(ルカ1:1-3)。

マルコ福音書に書かれていない伝承も手にしていたため、ルカは新たに福音書を書くことを決意しました。彼は医者でもあり、パウロとの旅を「使徒言行録」として書き残しています。(パウロは、『新約聖書』の「~の信徒への手紙」を書いた人物です。)

さて、本日の内容で、イエスは3度目となる「受難予告」を語られています。(十字架刑によって死ぬまでの一連の苦しみを伝えるイエスの言葉を「受難予告」と呼びます。)

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」(18:31-33)。

イエスは、御自身の旅の終わりに起こる出来事を教えられました。弟子たちは、この出来事をどのように受け取ったのか。

マルコ福音書は、この直後に、弟子の内ヤコブとヨハネ兄弟が、「栄光の座に座る時には、私たちを左右に座らせてください」と願い出たと伝えています。当然、他の弟子たちは抜け駆けした二人を責め、弟子たちの間で言い争いが起こりました。

弟子たちにとっての「旅の終わり」とは、指導者イエスがローマ帝国の支配からユダヤ人を解放し、自由と独立を勝ち取ることだったと考えられます。イエスとは目指す場所が違うが故に、死と復活の意味も分からないまま、弟子たちは地位を奪い合う。マルコ福音書は、そのような弟子たちのありのままを伝えたのでしょう。

しかしルカは、後にキリスト教会の中心人物となる弟子たちを悪く言いたくなかったのか、マルコ福音書の伝える権力争いを削除しています。そして、受難予告を受け取れなかった理由を、次のように言い換えています。

「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(ルカ18:34)。

理解させなかったのは神であり、後に彼らはイエスの言葉を真に悟り、教会を導いたのだとルカは伝えるのです。

しかし、突然「死んだ後に復活する」と言われた場合、私たちも、どう受け取れば良いのか分からないでしょう。最新の医療を駆使しても、人間には復活を実現することなど出来ないからです。

イエスと一緒に旅をした弟子たちも同じです。悩み、葛藤しつつ、イエスの受難予告の意味を考えていったに違いないのです。

イエス・キリストは、十字架による死と復活によって、この世での役割を果たされました。それは、人間の想像を超えた御業です。

ルーテル教会の牧師の中に、ナチス党のヒトラーの暗殺を企てたディートリヒ・ボンヘッファーという人物が居ます。彼は、暗殺計画の失敗によって投獄され、死を覚悟する日々の中で、次のような手紙を友人に送っています。

「神は、御自身を、この世から十字架へと追いやられるままに任せたもう。神は、この世においては無力で弱い。そして、まさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、神は、われわれのもとに降り、われわれを助けたもう。キリストの助けは、彼の全能によってではなく、彼の弱さに、つまり、彼の苦難による。……聖書は、人間を神の無力と苦難とに向かわせる。苦しむ神だけが、助けをあたえたもうことができる」(四四年七月一六日)。

(ボンヘッファーを読む 反ナチ抵抗者の生涯と思想 1995年 岩波書店/P.185)

ボンヘッファーは、死が刻々と迫る恐怖の只中で、無力で弱いキリストの姿に救いを見たのです。

また、彼は次のようにも語っています。「十字架において神から見捨てられた只中で、イエスは『わが神、わが神』と信頼をもって呼びかけている」と(同上/P.182)。

私たちは、自らの力で神へと近づくことはできません。打ちひしがれ、時に、醜ささえ滲み出る姿で、近づいて来られるキリストと出会うのです。苦しむ神だけが、美化できない私たちの現実を知っておられ、同時に、この身を引き受け、助け得るのだと信じます。

この世には、「神がおられるならば何故このようなことが…」と思わずにいられない苦難があり、神の居場所も分かりません。しかし、イエスが弱さの極みにあってなお、神を信頼して呼び求めたように、私たちの現実にも、今、呼び求めることのできる神がおられるのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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