傷ついた癒やし人
ルカによる福音書4章1-13節
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』 4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」 4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
毎年、燃やした棕櫚(しゅろ)の灰を塗る儀式を行う「灰の水曜日」から、「復活祭〔イースター〕」の前日までの期間を、「四旬節」と呼びます。今年は、3/6(水)~4/20(土)です。
聖書には、イエス・キリスト(=「救い主」という意味)の生涯が記されていますが、その結末には、最も残酷な十字架刑による死が記されています。四旬節には、十字架に至るまでの主イエスの苦難の出来事を辿るのです。
なぜ、キリスト教会は、この十字架をシンボルとして掲げているのか。それは、イエス・キリストが「復活された」と伝えられているためです。もはやキリストは十字架上にはおられず、今や私たちと共に生きておられる。復活を知る者のみが、十字架に「命」を見るのです。
四旬節は、主イエスの苦しさを共有する期間ではありません。耐え難い苦しみは、既に主イエスが背負われました。私たちは、その道を御自身のものとして引き受けられた主イエスの姿を辿ります。
十字架を背負われたからこそ、キリストは私たちの背負う苦しさ、深い悲しみ、痛みを知っておられます。そして、痛みのドン底に立たれた方だからこそ、傷つく私たちを癒やし得るのだと信じます。
本日も、私たちに与えられた聖書の言葉を聴いてまいります。
「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」(ルカ4:1,2)。
現代を生きる私たちには、悪魔がどのようなものか分かりません。ただ、この伝説物語が描く悪魔について聴くことはできます。また、主イエスの生き様を通して、誘惑に対して、どのような態度を取るべきかを教えられるのです。
悪魔は3度にわたり、主イエスに近づき声をかけています。
①「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(4:3)と、神を押しのけて自力で空腹を満たすようにそそのかす。
②世界を一望させ、「もしわたしを拝むなら、(国々の一切の権力と繁栄は)みんなあなたのものになる。」(7)と、冨へと誘う。
③神殿の屋根の端に立たせ、「ここから飛び降り、本当に神が天使を遣わして支えてくれるかを確かめてみろ。」と、疑いを起こす。
悪魔は、苦難をもたらすというよりは、苦しい中に置かれた者を、自分だけの力に頼るようにそそのかす。「神が本当におられるのか」との疑いを起こしたり、神を試すように促したりする。また、「豊かになりたい」という欲望を叶える代わりに、自分に従わせようとする存在として描かれています。すべてが神を遠ざけ、自力のみで生きるようにさせる誘惑です。
現代の世界は、聖書の語る悪魔に似ています。やりたい事や欲しい物で溢れ、能力や財産で人間が品定めされる。何よりも、直接神を見ることも、触れることも、声を聴くことも出来ない現実が、私たちを神から引き離すのです。
主イエスはこれらの誘惑に対して、どのように対処されたのでしょうか。「聖書には、こう書いてある。」と答えるだけで、40日間にわたって悪魔を無視し続けられたのだというのです。ここに、誘惑に限らず、如何なる状況下に置かれても、「神の救いを信じて待つ」という、主イエスの徹底した生き様が現わされているのです。
「神がおられるならば、何故このようなことが…。」と問いたくなる出来事が、私たちの生活の内に突如として起こることがあります。生活を一変させる自分の失敗。他者との関係の破れ。病気の告知や事故など自分の命に関わること。特に、大切な人の死は耐え難い痛みとなり、私たちを打ちのめします。
神の存在を信じるからこそ、私たちはその時に「何故」と問わずにはいられません。そして、期待して傷つくならば、信じない方が楽だと思うこともあるでしょう。
しかし厳しい現実の中を、主イエスは聖書の言葉を携えて生きられました。神がおられないかのように見える(神の恵みを見出せない)この時に、なおも神を信頼し続ける主イエスの姿こそ、確かに神がおられることの証拠なのです。つまり、今この時、私たちと共に神が生きておられるということです。
主イエスは、何をもって私たちの救い主(キリスト)と言われるのか。それは、最初に申しました通り、私たちの体験し得る、あらゆる痛みを引き受けられたためです。
私の好きな讃美歌の歌詞に、次のようにあります。「主の受けぬ試みも、主の知らぬ悲しみも、現世にあらじかし、いずこにも御跡見ゆ」(讃美歌1954年版/532番2節)。苦しさの只中にある時、主は私たちの最も近くにおられ、共にその痛みを背負ってくださっていることを信じます。そして、主に人生の片棒を担がれていることを知らされたからこそ、聖書に記される主の言葉を携え、この世界を生きていきたいのです。
明日は3月11日です。8年前に起こった東日本大震災は、私たちの脳裏に焼き付き、決して忘れることはできません。私たちにしてくださるように、一人ひとりのことを深く知っておられる主は、亡くなられた方々の痛みを、被災地の方々の深い悲しみを共に背負っておられるに違いありません。だからこそ、遠く離れたこの地で祈り、私たちの出来得る関わりを考えていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン