確信と信頼
ルカによる福音書7章1-10節
7:1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 7:2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 7:3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 7:9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 7:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
ガリラヤ湖の北から西側の一帯は、「ガリラヤ」と呼ばれます。マタイ福音書には、「異邦人のガリラヤ」(4:15)という表現が出てきますが、見方を変えれば国際的な町ということです。この地域は、ユダヤ人の生活圏の北端に位置したため、歴史の中で真っ先に敵国に侵略され、他に比べて外国の影響を強く受けてきました。
本日の舞台は、ガリラヤ湖の湖畔にある「カファルナウム」という町です。「百人隊長」が滞在していたことから、この町にローマ帝国の百人隊駐屯地が置かれていたことが分かります。
ユダヤ人は選ばれた民としての血統を重んじ、異教の習慣が流れ込むのを嫌い、外国人との関わりを極力避けました。ローマ帝国の管理下に置かれて以来、それまで以上に重い税金が課せられたため、過激派組織だけでなく、多くのユダヤ人が反感をもっていたのです。
しかし、本日の聖書の内容に登場する百人隊長は、カファルナウムの町のユダヤ人と、非常に良好な関係を築いていたようです。彼は、治安維持という務めに加え、ユダヤ人を愛し、彼らのための会堂(礼拝堂)を建てたのだというのです。
「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下(直訳:奴隷)が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」(ルカ7:2-4)。
奴隷を物のように使役する人々が居る中、百人隊長は病気で死にかけていた自分の奴隷(僕)の癒やしを願いました。ユダヤ人に対しても敬意を払って接していたのでしょう。ユダヤ人の長老たちが彼の奴隷のために立ち上がり、主イエスへと癒やしを願ったのは、彼らが百人隊長の生き様を見、信用していたからだと考えられます。
この願いを聴き、主イエスは、百人隊長の奴隷の元へ向かわれました。するとその途中で、今度は百人隊長の友人が伝言を携え、やって来たのです。
「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(7:6,7)。
なぜ、百人隊長は自ら主イエスに会いに行かなかったのか。それは、彼が、自分のことを「お伺いするのさえふさわしくない」者だと考えていたためです。主イエスが「神の権威」を授かった方だと確信していたからこそ、百人隊長は謙虚に身を低めたのです。
続く伝言では、そのような彼の確信と信頼が証しされています。
「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(7:8)。
その呼び名の通り、百人隊長は100人の部下を自分の指示の通りに従え得る権威を持っていました。そして彼は、部下に他人を殺すように命じることも出来る権威の重みを承知していたのです。
人の権威でも相手を動かすことができる。それならば、神の権威とは如何に圧倒的な力を及ぼすのか。百人隊長は、病や死さえも神の権威の前では無力であると確信していたのでしょう。「主よ、御足労には及びません。……ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(7:6,7)という言葉に、主イエスに対する百人隊長の信頼が映し出されるのです。
「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」(7:9,10)。
ユダヤの長老たちは、これまでの百人隊長の姿から彼を信用しました。そして、主イエスへと「ふさわしい人」だと紹介し、癒やしを願いました。この段階で主イエスは行動を起こされましたから、癒やしは果たされたことでしょう。
ところが百人隊長は、主イエスが来られる前に友人を遣わし、自らが「ユダヤ人の主」を迎えるには「ふさわしくない」と謙遜し、神の権威による御言葉をください、と伝言したのです。
「信用」とは、見えるものに裏付けられます。一方「信頼」とは、見えないものを尊ぶことによる期待と確信です。主イエスが感嘆された通り、ユダヤ人の長老たちの信用に優る確信と信頼を、百人隊長は神の御前に捧げたのです。
日毎に私たちが聴くのは、神の権威によって語られた主イエスの言葉です。「主よ、御足労には及びません。」そのひと言が私たちを生かすことを信じます。百人隊長が確信と信頼のゆえに安心を先取りしたように、主のひと言と共に、与えられた道を歩みたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン