根差す場所
ルカによる福音書6章37-49節
◆人を裁くな 6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 6:39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」 ◆実によって木を知る 6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 6:45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」 ◆家と土台 6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
2月3日(日)から連続して、ルカ福音書6章を読んでまいりました。主イエスが人々へと語られた幾つもの「たとえ話」が記されています。
多くの人々がヨルダン川周辺の各地から、「病を癒やし、罪の赦しを告げる人物が居る」との噂を聴きつけ、主イエスを訪ねました。わざわざ遠い地域から来た理由とは何か。彼らには、どうしても抜け出したい厳しい現実が、癒やされたい病が、背負いきれない重荷があったためだと想像致します。
主イエスは人々に何を語られたのか、本日も聴いてまいります。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(6:37,38)。
例えば升で米を量る場合、ゆすったり底を打つことで隙間が減り、より多く入ります。商人のようにケチにではなく、太っ腹に量る。すると相手からも同じように量ってもらえるだろうと語られています。
先週の内容には、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(6:31)とありました。そのように、お互いに尊重し、思いやる関係が築けるならば素晴らしいことです。
現在でも子どもたちには、「自分がされて嫌なことは、友だちにするな」と教えます。しかし聖書は、「他者を裁かない、罪を負わせない」と、マイナスとなる行動を止めるように教えることと共に、更に「相手を赦しなさい」と積極的な行動をも指示しています。
問題が大きくなるほど、許すことも難しくなることを私たちは知っています。自分は許されたいと願いつつも、他者を許せない自分がいる。だからこそ、続けて語られるたとえ話が胸に刺さるのです。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。……偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」(6:41,42)。
一つ前の口語訳聖書では、「丸太」は天井の「梁」と訳されていました。目の中にあるのは、それほど大きな木だということです。自分のことを棚に上げて、他人を批判する。それは、自分の目にある丸太に気づかないのに、他人の目のおが屑を取ろうとするような行為なのだというのです。
ここで重要なのは、「あなたの目には丸太が入っている」と指摘するのは誰かという問題です。それは、神にほかなりません。
「おが屑」を「罪」として考えます。人は、他人に関しては小さな罪さえ気になって指摘し、取り除く必要を感じてしまう。けれども、そのように他人を裁こうとする時、逆に、おが屑とは比較にならないほど大きい丸太、すなわち「大きな罪をあなたは背負っている」と神に指摘されることになるのです。
神が、私たちの歩みを全て御存知である以上、地上の誰もこの指摘を免れることのできる者は居ないことでしょう。しかし、そのように大きな罪を背負いつつも、私たちは審きによって滅ぼされてはいないのです。それは、神がその罪を自ら引き受け、私たちを赦すことを選ばれたからだと聖書は伝えています。
ヨハネ福音書には次のように記されています。
「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」(8:15)。
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(12:47)。
審きは神の領分であって、人は自らを棚に上げて他人を裁く資格を持ちません。何よりも、神が赦すことを選択された以上、この決断を覆すことは誰にも出来ないのです。
他人を裁かず、罪を負わせず、赦すためには、努力と忍耐と苦難が伴います。しかし、これらは既にキリストが果たされました。では、他人を裁く、罪を負わす、赦す資格を持たない私たちに、一体何が求められているのでしょうか。それは、「『世を救うため』に働かれる神の御旨に参与する」ことです。つまり、他人の救いを祈ることでありましょう。
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」(ルカ6:46-48)。
私たちは、土台のない自己中心的な命ではなく、キリストという岩の上に建つ命を生かされていることに気づかされました。裁きも、赦しも主に委ねます。丸太のような罪と共に、この身の全てを担われている私たちは、主の御旨に根差し、他者の救いを祈りたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン