主はあなたを喜ぶ(こども祝福式)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
教会の礼拝で大切なことは、聖書を読むことです。聖書には、神さまの言葉や、神さまのことを伝えたいと思った人々の言葉が書かれています。
皆さんは、誰かに手紙を渡したい時、どんなことを書きますか。手紙を渡す相手に伝えたいことを書くと思います。同じように、聖書には、神さまがどうしても私たちに伝えたかった言葉が書いてあるのです。
今日、覚えてほしいことは一つだけです。「あなたは、喜ばれてここに居る」ということです。
聖書には、次のように書いてありました。
「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」(詩編139:16)。
胎児とは、お腹の中の赤ちゃんのことです。まだ生まれる前の、お母さんのお腹の中に居る時に、お母さんも気づいていないほど小さいあなたを、神さまは最初から見ておられたのだというのです。
絵を書いたり、何かを作った時、「ねえ、見て!」と誰かに見てもらいたくなります。新しい歌を覚えたり、九九を暗記したら、「ねえ聴いて!」と誰かに聴いてもらいたくなります。見てもらい、聴いてもらい、私たちは大きくなっていくのです。
先生はクラスのみんなを順番に見なければならないし、家族は他にやることがあると見てくれないこともあります。でも、神さまは、いつでもどんな時でも、あなたのことを喜び、見ておられるのです。
それだけではありません。次のようにも書いてあります。
「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる」(139:4)。
神さまは、あなたが何かを言う前に、あなたの気持ちを分かっておられるのだというのです。嬉しい、悲しい、怒っている、幸せ。どんな時も傍に居て、「見て!聞いて!」という前に、私たちの気持ちを知っている。神さまはそんな方だと聖書は伝えています。
何で、たくさんの人が居る世界の中で、神さまはあなたを見るのか。それは、誰とも比べることができないほど、あなたのことが好きだからです。
あなたは、神さまに喜ばれてここに居ます。私たちも、あなたが大切です。このことを覚えていてください。
中高生の方々は、いちいち口を出してくる親に対して、少々放っておいてほしいと思っている方が多いかもしれません。
少し前に、「ヘリコプターペアレント」という単語が話題になりました。「上空を旋回するヘリコプターのごとく、子供のそばで管理、干渉し続ける親のこと。」だそうです。心配なのは分かるけれど、監視・管理され続けると息が詰まります。最も近くに居るからこそ、「あなたなら大丈夫」と信じて背中をおしてもらいたい時もあるでしょう。
「失敗は成功の母」と言われるように、どれだけ偉大な人でも、たくさんの失敗をしてきたのです。失敗しない方法がない以上、失敗した時、また立ち上がれるように一緒に居てくれる存在が必要なのです。
神さまは、人を受け入れ、赦す道を選ばれたと聖書は伝えています。失敗を避けられない私たちを知っておられ、「それでもあなたが大切なのだ」と語ってくださる。ここに、いつでも帰ることの出来る、私たちの居場所があるのです。
大人の方々は、子どもの時代は遥か昔でしょうか。頼る、見守られる立場から、頼られる、見守る立場となり、何かを受け取るよりも手渡すことの方が圧倒的に多くなったことでしょう。
しかし、私たちは多くの齢を重ねようとも、神の子どもであり続けるのです。
「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。……秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。……あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる」(139:4,5,15,17,18)。
考えていることや隠したい醜さも、背負っている痛みや悲しみも、私たち以上に、私たちのことを主は知っておられる。そして、必要な恵みを、私たちの進む道に用意されるのだというのです。
なぜか。それは、あなたを形造られて以来、これまでのあなたの歩みを、主はすべて見てこられたからです。主にとって、あなたは今でも最愛の子ども、何ものにも代えがたい宝だからです。今もなお、あなたは主に喜ばれ、ここに居るのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン