生活の保障
- jelcnogata
- Nov 18, 2018
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マルコによる福音書12章41-44節
12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日は、主イエスが神殿内で語られた言葉を聴いてまいります。後の14章で、主イエスは捕らえられ、十字架に磔にされることとなりますので、都エルサレムでの最期の滞在期間の出来事です。
「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」(12:41)。
主イエスの時代の都エルサレムの神殿は、第二神殿と呼ばれます。最初の神殿(ソロモン神殿・第一神殿)は、紀元前587年に新バビロニア王国の侵略によって破壊されました。バビロニアがペルシャに敗北した後に再建されたのが第二神殿(前537年-紀元70年)です。
神殿では、外国人は『異邦人の庭』まで、女性は『婦人の庭』まで、男性は『聖所』の入口まで、大祭司は『至聖所』までと、立場によって入ることが許される範囲が決められていました。
本日の聖句の舞台は婦人の庭です。主イエスは、賽銭箱と献金をする人々が見える場所に座り、その様子を見ておられたとあります。
エルサレム神殿の賽銭箱は、動物の角を用いたラッパ型の物が13個置かれたとか、投げ入れる形式だった等の意見があります。いずれにしても、多くのユダヤ人巡礼者が行き交う『婦人の庭』で、献金は行われていたようです。
投げ入れた音の違いで、貨幣の額や枚数は大体分かります。財産を自らの為ではなく多額の献金として捧げることは、神への従順さと信心深さの象徴として尊敬を集めたことでしょう。ただ、次第に人の目を意識した振る舞いや硬貨の音など、周囲の人々に分かるように献金が行われるようになったことが、「大勢の金持ちがたくさん入れていた。」(41)という内容から窺い知ることができます。
その中で、伴侶を亡くした一人の女性が、賽銭箱の前にやってきたのです。
「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」(12:42)
レプトン銅貨とは、硬貨の名前ではなく「小銭」のことです。銅貨1枚は、日本円で50円ほどの価値だったとされます。多くの金持ちが献金を行う横で、一人の女性が銅貨を2枚、100円ほどの献金を捧げたのです。
現在のような医療環境は整っておらず、社会保障等の制度も定まっていない時代です。伴侶を亡くすことで収入を得られず、貧しい生活を余儀なくされる女性は、決して少なくはなかったでしょう。
また、少し前の聖句には、次のようにあります。
「イエスは教えの中でこう言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする』」(12:38-40)。
伴侶との別れの悲しさを負い、今後の生活への不安を持つ女性から、一部の律法学者たちは亡き夫の遺産をむしり取ったようです。「救われたくば神に従順であれ」と言われたならば、多くの女性たちが彼らの言葉に従って献金を捧げたに違いないのです。
本日登場する女性は、遺産が底をついたのか、そもそも無かったのかは分かりません。主イエスが「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(12:44)と言われた通りならば、彼女の全財産は100円足らずということになります。人並みの生活には程遠い非常に貧しい状態です。
そうでありながらも、夫を亡くしたこの一人の貧しい女性は、全財産を神へと捧げました。多くの金持ちが多額の献金を行う横で塵に等しい額、むしろ少ないことで嘲笑われるかもしれない小銭2枚を、彼女は自らの生活の最後の保障を神に委ねたのです。
もし、「献金という行為」と「金額」を第一に考えるならば、額の少ない者、財産を持たない者は劣った存在という判断が下されることとなります。
しかし、そこに価値を見出されるのは献げ物を受け取る側、つまり神のみが出来るのであって、捧げた当事者が自らを恥じたり、それ以外の者たちが金額によって信仰の優劣をつけることは出来ないのです。
これは献金だけに留まらない問題です。「働き(奉仕)という行為」と「仕事量」を第一に考えるならば、出来ることの少ない者、何も出来ない者は劣った存在という判断が下されます。力ある者を中心に形づくられた社会は、この価値判断によって優劣を定めます。
しかし、もし、それぞれの存在の価値を決めることができるとするならば、それは個々の存在を形づくられた方のみでありましょう。
貧しい一人の女性は、伴侶との死別の悼みを負いつつ、今日生きる保障である小銭2枚を捧げました。それは自力で生きるのではなく、この先の命を他力(神)へと委ね、生かされていくとの確信に彼女が立った出来事として受け取りたいのです。
この物語を聴き、「小銭2枚でパンを買えば良いではないか。生きることを諦めたのか。」と思わずにはいられません。
しかし、無意味とも思える、最後の2枚の小銭を捧げる彼女の姿は、確かに主イエスによって「見られていた」のです!主が彼女の貧しい生活を知り、全てを捧げる姿も目撃されたとは、彼女の歩みが無意味には終わらず、捨て置かれ続けはしないことの証しでありましょう。
私たちの歩みとは、常に主に知られ、見られている。だからこそ、自らの選択や決断という自力で生きる命から、生かされる命へ招かれ、与えられる恵みの一つひとつを目撃し、感謝して受け取る者とされたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
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