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自由

マルコによる福音書9章30-37節

◆再び自分の死と復活を予告する 9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 ◆いちばん偉い者 9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエスが弟子たちと民衆へと、これから起こる「十字架の死」と「復活」について話された出来事を聴きました。

最初に弟子となったシモン・ペトロ(岩という意味のあだ名)は、主イエスへと「あなたは、メシア(油注がれた者)です。」(マルコ8:29)と言いました。王様になる者には、戴冠式にて香油を注ぐ儀式が行われました。つまり、ペトロは、主イエスをユダヤ人の王様だと言い表したのです。

ペトロや民衆の望む「ユダヤ人の王」とは、ローマ帝国の監督や、ローマ帝国におもねるヘロデ王の3人の息子の身勝手な圧政から民を救い出す希望の存在だったのでしょう。だからこそ、主イエスが「私は権力者たちによって殺される」と言われた時、ペトロは主イエスを端へ連れ出し、「そんなことがあってはならない」と猛反発したのだと考えられます。

しかし、主イエスは彼らの期待に反し、多くの犠牲によって勝ち取る独立国家の王にはなられません。人々の憎しみと罪を背負い、罪人の一人として十字架にかけられ、死と痛みの底に立たれるのです。

神の計画を自らの願う方向にねじ曲げ、沿わせようとするペトロを叱責した後、主イエスは言われました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。…中略…人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(8:34,36,37)。

十字架に続く道を進まれる主イエスに従うとは、すなわち弟子たち自身も死ぬということです。従うことの意味を誤解する弟子たちへと、主イエスは、先に死が待ち受けているのだと教えられます。そして、人には耐え難い道だからこそ、主イエスお独りが十字架の死を引き受けられたことを覚えたいのです。

さて本日の内容も、主イエスの受難予告より語り始められています。

「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9:30-32)。

「人に気づかれるのを好まれなかった」とありますが、先週の内容で、既に民衆に対しても、主イエスは御自身の受難の出来事を教えておられます。ですから、内緒話をするため身を隠したのではないことが分かります。では、なぜ人を避けられるのか。それは、主イエスがついに、御自身の進まれる先を見据えられたためだと考えられます。

主イエスは、目的無く世に降られたのではありません。「十字架による死」と「復活」という果たすべき役割がありました。

弟子たちと民衆に対して、御自身の到着点を話された以上、もはや進む先は一点。エルサレムにて受けるべき受難に他ならないのです。ただ、一度目の受難予告の際にペトロが叱責を受けたことで、二度目のこの時には、弟子たちは言葉の意味が分からないまま沈黙しています。

「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(9:33,34)。

主イエスにとって最も重要である死と復活の出来事について聴きつつも、弟子たちはその言葉を受け取りもしていない様子が窺えます。

彼らの議論の中心は、「だれがいちばん偉いか」ということでした。既に、御自身がユダヤ人の王として君臨することはないことを明らかにされたにもかかわらず、弟子たちは依然として高い地位を求め、競い合うのです。

「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである』」(9:35-37)。

「いちばん先」とは、後先の順番の話ではありません。初期のローマ帝国の皇帝には、最高権力者として「第一人者(princeps)」という称号が与えられました。つまり、弟子たちは自分たちの間(群衆も含むか)で「第一の位置を取る者」が誰かと争っていたのです。

主イエスは、そのような弟子たちへと、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言われました。仕える者とは、召使いや僕、奴隷の立場と言えましょう。すべての人に仕える者が「第一」となるとは、どういう意味なのでしょうか。

使徒パウロは、イエス・キリストを次のように言い表します。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。

主イエスは、人々が争って上り詰めようとしている頂点には居られません。十字架の死というドン底に、侮辱として茨の冠を被せられた主イエスの座すべき王座があるのです。主イエスが最も低い場所に立たれる方だからこそ、そこに最も近いのは、「すべての人に仕える者」なのだと言えましょう。ここに、神にとっての「第一」があるのです。

哲学者の鷲田清一氏は、雑誌にて次のように話しておられます。

「パスカルの『パンセ』のなかに『正義と力』と題された断章があって、そこで『正しいものに従うことは正義である。最も強のに従うことは必然である』と言われている。…中略…必然というのはどうにもならないことで、自由というのは選択できること。そうすると、パスカルの言葉を裏返したら、弱いものに従うのは自由である、ということになる。」(NATURE INTERFACE No.3,P.16-23,鷲田清,2001, http://www.natureinterface.com/j/ni03/P16-23/)

主イエスの語られる「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」との言葉は、弱いものに従う自由への招きとして聴くことができます。

「仕える」という言葉の原語は、「ディアコニア」です。教会における奉仕は、このディアコニアという言葉で表現されます。主イエスは、最も低い場所に立たれることを選ばれました。その場に主イエスがおられるからこそ、私たちもまた自由の内に出かけていくのです。

現代の社会においても、影響力や発言力の強い者が中心に立ち、必然的に人々を従わせようと致します。しかしだからこそ、私たちは主イエスによって示された自由へと身を置きたい。神の御旨が何であるかを考える者でありたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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