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対立

  • jelcnogata
  • Sep 23, 2018
  • 7 min read

マルコによる福音書8:27-38節

◆ペトロ、信仰を言い表す 8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 ◆イエス、死と復活を予告する 8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、人々が耳が聞えず話せない人を連れてきて、主イエスへと癒やしを願った出来事について聴きました。

「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(7:33-35)。

一つひとつの所作にどのような意味が込められているのかは分かりませんが、主イエスが触れ、「開け」と言われることで、耳が聞えず話せなかった者が癒やされたのだというのです。直後にはっきり話せた様子から、彼がもともと聴者だったと推測します。

ろう者の間には手話という独立した言語があります。「外国と日本」と同様に、「聴者の社会とろう者の社会」があるのです。音のない世界を生きてきた人にとっては、突然聞こえるようになることが喪失になる場合もあります。だからこそ私たちは、主イエスの癒やしの出来事を、聞こえることが幸いだとは読みません。この物語を、途中で音を失った人へと、主イエスが音を取り戻された「回復の出来事」として受け取りたいのです。

突然音を失い、困難な生活を余儀なくされた者を、人々は主イエスのもとへと連れてまいりました。苦しい時、助け手が与えられるとは、如何に有り難いことでしょうか。私たちは今、互いに祈り合う者としてこの場に集められています。祈りの言葉が出ない時にも、「主の祈り」で「我らの…」と語られる通り、私たちは執り成し合う関係として結ばれています。

周囲の人々の執り成しのゆえに癒やされたように、私たちの祈りが、主が聴き届けられるという確信をもって歩み出したいのです。

さて、本日の聖句には、共に歩んでいた主イエスと弟子たちが対立する様子が記されています。

噂が広まったためか、主イエスと弟子たちは、どこに向かおうとも群衆に囲まれています。注目の的になることで、弟子たちの気持ちは高ぶっていたことでしょう。

ヘロデ大王の息子フィリポの治める「カイサリア」へと向かわれる旅の途中で、主イエスは弟子たちへと「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(8:27)と聴かれました。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だ」と言う人々の噂を伝えています。

洗礼者ヨハネは、多くの人々へ悔い改めの洗礼を宣べ伝え、ヘロデ大王の息子ヘロデに反抗して斬首刑に処せられた人物です。エリヤとは生きながら天に上げられたと伝えられる預言者です。預言者とは、先を予言するのではなく、文字通り神の言葉を預かり告げる者のことです(実際にはご機嫌取りも多かったが)。

いずれにしても、ローマ帝国の監督下、ヘロデ大王の3人の息子の統治下に生きていた民衆は、主イエスをかつての偉大な預言者と重ね「道を示してくれるのではないか」と期待していたことが窺えます。

「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(8:29,30)。

「メシア」とは「油を注がれた者」のことであり、王として即位する者が戴冠式で油を注がれるため、「王」を意味しています。ローマの監督下からユダヤ人を解放する王とは、ユダヤ人の救世主と言えましょう。そのため、メシア=救い主の意味で語られています。

同じ内容が、マタイ福音書では、誰よりも先に主イエスを「メシア」と言い表したペトロを賞賛する内容で記されています。

しかし、本日のマルコ福音書では、主イエスがペトロを「戒められた」とあります。原語で見ると、悪霊を叱りつける時と同じ単語が使われているのです。つまり、「人々は預言者などと噂し、期待しているが、共に歩むあなたがたは、そのようなことに関心を向けるな」と、マタイ福音書とは真逆の内容が伝えられているとして受け取ることができるのです。

このことを念頭に置き、続く内容を見てまいります。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(8:31,32)。

この後、主イエスは周囲に居た民衆へと話をされますから、人々に聴かれる場所で、御自身の死と復活を語られたということです。

ペトロにとって、主イエスはユダヤ人にとっての「メシア(王)」になるべき存在でした。監督下の縛りから独立するためには戦いは避けられないでしょう。主イエスを指導者として、独立を見据えて歩み始めた以上、弟子たちの気持ちが高ぶるのも当然です。

しかし、民衆に支持され、権力者である宗教指導者さえ恐れるに足りない絶好調な歩みの中で、突然主イエスは「わたしは死ぬことになる」と、皆の前で言われたのです。未来の王が死ぬ時、期待する者たちの夢も同時に崩れ去ります。そのためペトロは、主イエスを端へ連れて行き、批難したのでしょう。

「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」(8:33,34)。

主イエスの進まれる先に用意されたのは、外国に勝利し、ユダヤ人の独立国家を手にするという、大勢の犠牲の上に成り立つ輝かしい王座ではありませんでした。

重罪人を釈放する代わりに背負った十字架の上で、茨の冠を被せられ、侮辱されながら死ぬ。この痛みの底に、主イエスは御自身の王座を見出されるのです。

ペトロは「あなたは、メシアです」(8:29)と語りつつ、今の自分たちにとって都合の良い王のイメージを、主イエスに重ねました。故郷で見てきた苦しむ同胞や子どもたちの姿が、ペトロを奮い立たせていたのでしょうか。

いずれにしても、ローマ帝国やユダヤ人の権力者たちと戦ったならば、多くの犠牲は免れなかったでしょう。考え抜いて道を選択しようとも、人は一寸先さえ見通せず、最善が何であるのかを見極めることは限りなく難しいのです。

神は、それぞれに安心を求めつつも命を削り合い、奪い合うこの世界へと、主イエスを遣わされました。死を引き受けられたのは、神が私たちを赦しておられることを現すため。復活されたのは、神には死さえ到底及ばないこと、そして、死の先で神と分かち合う命があるのだと示すためです。生きる今も、死の先でも、私たちは神に愛され続けるのだと、主イエスは命をかけて現されました。ここに、神にとっての最善、「救い主」の姿が現されるのです。

ペトロに限らず、人は自らの願う方向へと、神を引き寄せたいと願いますが、主イエスは「神の御心を見よ」と招いておられます。私たちには未来を知ることは出来ませんが、生涯の道の至る場所に備えられた神の恵みを捜し、喜びつつ受け取る者でありたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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