伝統
- jelcnogata
- Sep 2, 2018
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マルコによる福音書7章1-15節
7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週の聖句には、ガリラヤ湖の向こう岸に行こうと、昼に舟で漕ぎ出した弟子たちが、逆風ために夜明け近くになっても岸に着けずにいた様子が記されていました。山にてお独りで祈っておられた主イエスは、漕ぎ悩む弟子たちを見て、湖の上を歩いて彼らのもとへ向かわれたと、聖書は伝えています。
現代では受け入れ難い物語ですが、主イエスがこの時、恐怖する弟子たちへと語られた言葉に注目したいのです。
「イエスはすぐ彼らと話し始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた」(マルコ6:50)。
「安心しなさい(tharseo)」は、「勇気、確信、大胆」を意味する名詞(thasos)から派生した動詞です。
夜明け前の暗い湖で逆風に漕ぎ悩み、疲労困憊だった弟子たちは、主イエスの突然の訪れと語りかけによって安心を得ることとなりました。「主イエスが共におられる」という確信が、彼らに勇気と大胆さを取り戻させたのだと気づかされます。
主イエスは、誰にも成し得ない方法で、湖の上で恐怖する弟子たちのもとへ来られました。それは、今、耐え難い苦難の中に置かれる「私たちのもとにも主イエスは来られるのだ」ということのしるしとして受け取りたいのです。
「主が共におられる」との確信(thasos)が、私たちの内に勇気(tharseo)を起こします。いつも御自身の方から近づいてくださる主にこそ、これからもこの身を委ねたいのです。
「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」(7:1)。
直前の6章で、主イエス一行はガリラヤ湖畔で活動しているため、引き続き7章もガリラヤ地方が舞台だと考えられます。
ファリサイ派は復活信仰に立ち、聖書に書かれている掟に重きを置くユダヤ教の一派です。同じ教義に立つならば、誰でもファリサイ派になることが出来ます。各地に神の礼拝所が建てられたように、ファリサイ派の人々も各地に住み、神や信仰者の生き方について人々へと教えていたようです。
一方、当時の律法学者の多くは、都エルサレムに住んでいたと言われます。聖書について学び、研究するには、信仰の拠点で活動する方が都合が良かったのでしょう。そして、律法学者はエルサレムで学んだ内容を携えて各地へ赴き、そこに住むファリサイ派の人々を指導したのです。
7章の冒頭には、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て」とありました。都エルサレムから律法学者が来たことを機に、現地に住んでいたファリサイ派が、ついに主イエスへと文句を言いに来たということでしょうか。
「そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。…中略…そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか』」(7:2,5)。
衛生上の理由としてではなく、聖なる神に倣い、宗教的に清くあるために、儀式として手を洗っていました。(衛生面の常識が定まっていない時代であるため、手を洗わないことで病気になったとしても、それが個々人の信仰の結果として受け取られたことだろう。)
なぜ、身を清める必要があるのか。それは、神に献げ物などをする際に、宗教的なけがれを負った者は捧げることができないためです。祭司でない限り毎日献げ物をすることはないのですが、次第に「清さを保ち続ける」ことが強調されるようになり、民衆も食事ごとに手を洗うようになっていたのでしょう。
しかし、主イエスは言われます。
「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と」(マルコ7:9-12)。
当時、「コルバン」という言葉が用いられることがあったようです。主イエスが説明される通り、「神への供え物」を意味する言葉です。
敬うべき両親が求めた物の中に、どうしても渡したくない物がある。その時、「これは神への献げ物(コルバン)です。」と言えば、渡さなくて済むのです。その後に神殿へと捧げなくても問題はなかったようですから便利な言葉です。
損をせず、責任も逃れるために「コルバン」という言葉を利用しつつも、一方では「手を洗う」という儀式を行わないことには過剰に反応するのです。途中の説明では、他にも市場からの帰宅時に、また、「杯、鉢、銅の器や寝台」も洗い清める必要があると、更に細かく定められていたと紹介されています。神の掟を蔑ろにしながら、かつてのファリサイ派や律法学者の先輩が定めたルールには従う。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は」とあるように、都エルサレム近辺での、そのような常識を他の地域に広め、指導するとは民衆からすれば迷惑な話です。
だからこそ、主イエスは言われるのです。
「『あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。』それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。『皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである』」(7:13-15)。
ファリサイ派の人々は、自分たちの仲間でない者、掟を守らない人々を「地の民」と呼びました。掟を破る可能性がある者たちを軽蔑を込めてそのように呼び、関わりを避けたり、彼らが触れた物は全て清める必要があるとしたのです。長い時の流れの中で人が細く定めてきたルールは、人々の助けとなるどころか、守ろうとする者の足枷となり、守れない者を裁く基準となりました。富裕層以上に、多くの貧困層が地の民として数えられることとなったのです。
だからこそ、「これと同じようなことをたくさん行っている」(7:13)宗教指導者たちを批判し、主イエスは人々へと言われるのです。真に清めるべきは、神が「良し」とされ、託された世界や被造物、「外から体内に入るモノではなく、人の内より生じるモノなのだ」と。それは、人が編み出した伝統に縛られず、神の御心に立つ安らぎへの招きと言えましょう。
使徒パウロは、主イエスを信じた異邦人へ割礼を強制しようとした他の使徒たちと対峙し、ガラテヤの教会の人々に言いました。
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラ5:1)。
主を信じる者であるために必要な条件は、掟を完全に守る正しい生活でも、熱心さでもありません。信仰者に必要なモノとは、正しく在れず、時に邪な思いをいだいてしまうこの身を、それでも愛し、十字架を背負われた主の歩みを知らされること、語られた言葉を聴くことです。主の言葉を聴き、御心を知らされることから、私たちは歩み始めたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
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