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何も持たず

マルコによる福音書6章6b-13節

6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。 6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエスの故郷ナザレ村にて起こった出来事について聴きました。

「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(マルコ6:5)。

ナザレの人々は、幼き日のイエスとその一家を知っていました。「知っていた」という理由で、彼らは主イエスの言葉や奇跡の業に感心するものの、信じて身を委ねることは出来ませんでした。

現代の社会では、「知ること」が重要な意味を持ちます。学校での勉強だけではなく、医療や福祉など生活の中で知らなければ損をすることが多くあります。一方、個人情報が悪用され、犯罪に結びつくとして、「知られること」に細心の注意を払うように呼びかけられています。このように、知ることがプラスとなり、知られることがマイナスとなる社会に、私たちは生きています。

しかし、信仰においては全く逆なのです。

信仰とは、私たちが知るのではなく、神に知られることにより始められます。神に知られ、大切にされ、支えられる体験と気づきが、私たちの内に信仰を起こすことを覚えたいのです。

「知る」ということは、人を選びます。知ることが出来る人ばかりではなく、様々な制約で知ることが出来ない人もいます。また、皆が同じように知っているのではなく、それぞれの知り方は違います。なによりも、知っていることを表現できる人がいるのに対して、表現できない人もいます。

一方「知られる」ことは、人を選びません。いつでも、どこでも、誰にでも与えられることです。私たちが「皆、等しく神と人々に知られている」ということは幸いです。「神に知られる」ことから始められる、この安らぎに与りたいのです。

さて本日は、マルコ福音書6章の続きより聴いてまいります。

主イエスは、3年間の旅の中で多くの人々と出会い、言葉と業によって神の御旨を現されました。ただ、お独りで全ての人を訪ねるには、多くの時間が必要です。そのためか、主イエスは「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされ」ました(6:7)。

皆さまは、旅に出る際にどのような準備をされるでしょうか。

主イエスの時代には、便利な交通機関はありませんから、ラクダやロバに荷物を運ばせていました。距離の遠い場所に向かう場合には、盗賊や野獣に襲われないようにキャラバン(商隊) を組み、集団で移動したようです。

しかし本日の聖句で、主イエスは12人の弟子たちへと二人組で旅をするように命じられましたが、この時に指示された内容が一風変わっていたのです。

「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(6:7-9)。

杖とサンダルは長旅の必需品です。杖は野獣と遭遇した際には武器ともなるでしょう。ただ、衣服と履物の他に、持っていっても良い彼らの持ち物が1本の杖だけとは、非常に厳しい条件です。無一文で、食べ物も着替えの用意もない状態で、荒野を越え、先にある村を目指さなくてはならないのだというのです。

「また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい』」(6:10)。

無一文である以上、何とか村に到着しようとも宿屋に泊まることも、食事を得ることもできません。そのため主イエスは、その村で出会った者の家に泊めてもらい、滞在期間中はずっとその家にとどまるようにと指示されます。

しかし、皆が快く受け入れてくれることはありません。そのため、主イエスは拒否された場合の対処も、「そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(6:11)と、弟子たちへと教えておられます。足の裏の埃を払い落とすとは、「何の関わりも無い」という表明です。(一つの家にとどまる理由は、各家庭によってもてなしに差があるため、弟子たちが手厚いもてなしを求めて、他の家に移ることを避けるためだとも考えられます。)

主イエスは何故、このような厳しい条件で弟子たちに旅をさせるのでしょうか。

弟子たちが1本の杖のみで荒野を進み、無傷で村に辿り着く。その村で、空腹の彼らを家に迎え入れ、食事と寝る場所を用意してくれる者と出会う。まさに奇跡的な体験です。

もし、弟子たちがパンやお金を持ち、自分で道を切り開くことが出来るならば、それらの出来事を心にとめることはないでしょう。だからこそ、何も持たずとも満たされ、助け手が与えられるという神の恵みを、弟子たちが深く受け止めることが出来るように、主イエスは杖だけを持たせ、送り出されたのだと受け取ることができます。

「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:12,13)。

弟子たちは自分たちの力ではなく、主イエスより授けられた「汚れた霊に対する権能」によって、人々を癒やしたとあります。

マルコ9章で、主イエスは除霊について、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(9:29)と言われます。また、マタイ18章では、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と、共に祈ることの大切さを教えておられます。

つまり、弟子たちが二人組で派遣されたのは、彼らが自分の力に頼らず、互いに祈り合う者となるためだったと考えられます。

弟子たちは、旅での出会いにとどまり、祈り合う中で、人々の癒やしを目撃することとなりました。彼ら自身の力ではなく果たされた癒やしを通して、神の憐れみを見ることとなったのです。

私たちは、物の溢れる時代を生きています。日本では、手を伸ばしさえすれば、ほとんどの人が豊かさを手にできる環境に置かれています。それは、自分の力で進む道を切り開いていけるということです。神の恵みが特に見えにくい時代と言えましょう。

しかし、主イエスの時代の人々と同じように、私たちも限りある命を生きており、突如として事故に遭ったり、病気を背負わなければならない状況に置かれます。愛する者との別れを経験します。心の渇きや痛みは、長い時が流れようとも消え去ることなく在るのです。だからこそ、主イエスの御言葉に聴きたいのです。

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(6:8,9)。

これは、何も持たなくとも、たとえ満たされない状況に置かれようとも、神によって与えられる恵みがあるという宣言でありましょう。

神は、私たちへと働きかけ、十分な糧を備えてくださる方であると信じます。だからこそ、私たちも互いに祈り合うことから始めたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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