知られている
マルコによる福音書6章1-6a節
6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週は、マルコ福音書5章にある二つの物語を聴きました。
一つ目が、12年間出血の止まらない病気に苦しんできた女性が癒やされた物語。二つ目が、会堂長ヤイロの娘が12歳で病気のため死に至った際に、主イエスが命を与えられた物語です。
異なる二つの物語に貫かれるのは、主イエスの「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5:36)との言葉です。
出血が止まらない女性は、神聖な物と考えられていた血に触れたという理由で、宗教的に「けがれた者」とされ、他者に触れることさえ禁じられました。さらに、あくどい医者たちに全財産を奪われました。しかし、最後の希望を主イエスに置き、その服に触れることで病気は癒えることとなったのです。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」(5:34)。
一方、12歳の娘を亡くした周囲の人々は、家に到着した主イエスが「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(5:39)と語られようとも、それを嘲笑い、悲嘆の叫びを続けました。復活を信じない死とは、全ての断絶と言えましょう。神にも死は覆せないとの落胆が窺えます。
しかし主イエスは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」(5:41)との言葉によって、彼女へと再び命を取り戻されました。死さえも到底及ばない神の力を現すことで、神を信頼して生きる安心を教えられたのです。
この世で限りある時間を生きる私たちには、多くの恐れがありますが、死さえも太刀打ちできない神が今、私たちと共におられます。生涯を通して、生と死を越えて主に支えられる命。この世での限界を越え、私たちは主と共に在る永遠の命に与ります。「恐れることはない。ただ信じなさい」(5:36)との主イエスの言葉を、主と共に歩む安心への招きとして受け取りたいのです。
さて本日は、主イエスの故郷での出来事について聴いてまいります。
「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か』」(6:1,2)。
一行はガリラヤ湖の対岸に渡った先で、会堂長ヤイロと娘、長血を患う女性の居た村を後にし、主イエスの故郷ナザレへ向かいました。
当時は各地に会堂が建てられており、週に1度の安息日には皆が集まって聖書の内容を聴き、神を礼拝していました。識字率の低い時代に朗読が出来るのは、ファリサイ派や律法学者など学問に取り組んだ者たちです。(宗教指導者たちは、神の言葉をねじ曲げ、自分の都合の良いように伝えることが出来たということです。)滞在者であっても、会堂で聖書朗読、説教や証しを行えたようです。
主イエスは他の町と同様に、故郷ナザレにおいても、神の御旨を「会堂で教え」られました。話を聴き、癒やしの業を目の当たりにしたナザレの人々の驚きが伝えられています。けれども、主イエスの幼少時代を「知っている」という思いが、彼ら自身をつまずかせるのです。
「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」(6:3)。
幼い日の主イエスについて私たちに伝えられているのは、ルカ福音2章のわずかな内容です。
「イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」(ルカ2:42-47)。
昔から優れていたにせよ、ナザレの人々からすれば、主イエスの両親はマリアとヨセフであり、出処はその家族以外では有り得ません。そのため、主イエスの言葉や業を、神と結びつけて考えることが出来なかったのでしょう。心底驚きはするものの、そこに全ての信頼を置くまでには至らないのです。
「イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(6:4-6)。
神の御業が果たされるためには、神と人との繋がりが必要であると受け取ることが出来ます。
主イエスは、人の罪のゆえに断ち切られてしまった神と人との関係を再び結ぶため、全ての者の罪を引き受け、十字架へとかかられたと聖書は伝えています。つまり、人として世に降られた主イエスは、神と人との間を繋ぐ「道」としての役割を担われた方と言えましょう。
幼い頃を知るナザレの人々は、道としての主イエスを信じることはできませんでした。彼ら自身が神に続く道を断ち切ったため、本来現わされるべき奇跡が、この時果たせなかったのだと考えられます。
私たちの社会では、「知る」ということが重要な意味を持ちます。
福祉や医療の保障やサービスは、知っている者が得をします。行政は、補助の申請を大々的に勧めることはありません。各自の努力に委ねれば、労力や支出を抑えることが出来るため、資料やHPなどに掲載するなど情報を得られる環境を整えるまでに留めるのでしょう。
一方、「知られる」ということには、細心の注意を払わなければなりません。個人情報が他人の手に渡ることで被害や損害を被ったという事件がたくさんあります。身を守るためには、各自が気をつけなければなりません。このように、知ることがプラスになり、知られることがマイナスになる社会に、私たちは生きているのです。
しかし、信仰においては、全く逆のことが起こっています。
ナザレの人々は、主イエスのこの世での家族を「知っている」ということで、語られた言葉と現された業とを受け止めることができませんでした。また、聖書を深く研究し、掟を遵守する人々も、主イエスから去らざるを得ませんでした。「知っている」という思いが信頼を阻み、主イエスとの距離、神との隔たりを生じさせたのです。
では、知られることは、信仰においてどのような意味をもつのでしょうか。
信仰は祈られることから始まり、信仰者は「神に知られる」という体験を通して救いに至ります。この世界を造り、十字架の死によって罪を赦し、この命を最期まで引き受けてくださる方が、私たちを知り、覚え、祈り、関わり続けてくださるのです。私たちが背負う痛みや重荷が、全て知られている。胸の内にある想いや醜ささえも御存知の上で、主は私たちの歩みに伴われるのだと伝えられています。主に知られる私たちは、痛みを負ったまま放置されることも、孤独の内に倒れることも、愚かさのゆえに切り捨てられることもないのです。
神と人とに知られ、祈られる者として生かされる。この幸いを、確かに受け取りたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン