成長する種
マルコによる福音書4章26-34節 4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、主イエスを敵視する者たちの流した噂について聴きました。「あの男は気が変になっている」(マルコ3:20)、「汚れた霊に取りつかれている」(30)など、宗教指導者たちは、主イエスを悪魔の化身であるかのように仕立て上げました。そのため、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」(21)のです。紀元1世紀の出来事ですから、この噂を信じた者も多かったことが窺えます。
主イエスは3年間の旅路において、出会った人々へと神の御心を語り、奇跡の御業を現されました。掟を忠実に果たし、人々を戒める教師だった宗教指導者たちの目には、主イエスが「自由奔放に振る舞う神の冒涜者」として映ったのでしょう。多くの人々が、主イエスとの関わりを通して癒やされ、救われるとしても黙認することはできず、ついには殺害を計画するまでに至ったのです。
「サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない」(3:26,27)。
国や家庭と同様に、悪魔もわざわざ内輪もめして、自ら滅ぶことは選ばないだろうと、主イエスは言われました。また、強い者を縛り上げるとは、「悪霊に取りつかれた者は、彼の内の悪霊が縛られて初めて癒やされる」という、たとえとして受け取ることができます。つまり、主イエスの癒やしの業は、悪霊と対峙する行為だということです。
宗教指導者たちが悪魔呼ばわりする中、主イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」(3:28)と。主イエスは何者なのか。全ての人々を赦すために、十字架へと続く苦難の道を選び取られた方です。出処を知らされた私たちは、主イエスの語られる言葉にこそ聴きたいのです。
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」(4:1)。
3章に続き、多くの人々が押し寄せたために、主イエスは小舟に乗って人々へと話をされました。4章では、彼らに語られたとされるたとえ話が、幾つも記されています。本日の内容を聴いてまいります。
「イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない』」(4:26,27)。
人は種を蒔き、収穫を経て食物を得ます。下準備として土に肥料を混ぜ込み、種蒔き後に水やりなどの世話を惜しみなく行うことはできます。けれども、人の力で発芽させ、茎を伸ばし、実りを増やすことはできませんし、新たな命としての種を一から作ることもできません。十分な世話の後に人が出来ることは「待つ」ことです。
「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(4:28,29)。
種の内には命が、土には種を成長させる力が備えられています。これらによってもたらされる収穫とは、人の行為の結果ではなく、恵みの出来事と言い表せます。
続けて、主イエスはもう一つのたとえを話されました。
「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る』」(4:30-32)。
「からし種」のサイズは、0.5mmほどだと言われます。その小さな種が、鳥が羽を休めることができるほど大きく成長するとは驚くべきことです。人の想像を越えた力が、小さなからし種には備わっているのです。
主イエスは、これらの二つのたとえ話を通して、「神の国」について教えておられます。神の国とは、神の支配が隅々に及ぶ場所であると言われます。
宣教の初め、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と言われました。主イエスが世に降られたことで、ついに神の御心が果たされる時が来(時が満ち)た。同時に、神の国がこの世界に生きる者たちへと近づいたのだというのです。つまり、主イエスの十字架の死と復活の出来事の後、神の国はこの地上に拡げられることとなったということでしょう。
主イエスの歩みを通して、神が何を願っておられるのかを知らされます。病気が治らない、頼れる者がいない、貧しい、社会から弾かれるなど、力を持たない者を中心に、主イエスは出会っていかれました。そして、その一人ひとりをかけがえのない存在として貴び、手を取り共に歩まれたのです。
神の支配が隅々に及ぶ「神の国」とは、人々が神の御心を知り、実行する時、そこに実現し、また、拡げられていくものであると考えることができます。では、人間の行為こそ最も重要なのでしょうか。主イエスが話された二つのたとえを思い起こしたいのです。
一つ目のたとえは、土に落とされた種は、人の知らない間に育ち、収穫に至るという内容でした。蒔かれた種とは、主イエスの語られた言葉のことです。その言葉には、人を生かし活かす力が備えられています。主の言葉を聴くことで信仰が起こされた人々こそ、収穫すべき「実り」なのです。それは、私たちの行動ではなく、私たちが知らない間に、神が働かれたことによってもたらされた実りであることを覚えたいのです。
二つ目のたとえでは、小さなからし種の大きな成長について語られていました。イエス・キリストという一粒の種が、この地上に蒔かれて以来、時代や国境を越え、現代の日本に生きる私たちに至るまで、主イエスの言葉は語り継がれ、多くの人々を生かし続けています。そして、神の御心を分かち合う信仰者の間に、神の国は拡げられていくのです。この拡がりに驚かずにはいられません。成長した「からし種」の木陰で休む鳥のように、痛みの多い世界に在りながら、私たちは主の言葉により生きるために必要な安らぎを受け取るのです。
時代が流れようとも、人の弱さや欲深さは変わりません。主イエスが世に降られてから2000年の時を経てもなお、社会は個々人の能力や結果という物差しで、人の価値を定める在り方を変えません。それにより、端に追いやられ、抑圧される人が居ます。神の国の拡がりを阻むのは、人間であることを思い知らされます。
しかし、主イエスは十字架の死によって、そのような私たちの弱さを赦してくださいました。私たちは、何故この赦しに与るのか。それは私たち自身が、主にとっての実りだからです。
私の心が如何に荒れ果て、やせ細っているか、自分でよく分かっています。しかし主は、語られた言葉の種が根づくようになるまで、枯れたこの心を根気強く耕してくださるのです。
聖書の言葉に力づけられる出来事こそ、主の蒔かれた種が、大きく成長している証しでありましょう。私たちは自らの力ではなく、主に頼るように招かれます。喜ばれ、生かされる私たちが、実りとして主によって引き受けられるのです。
今、主は聖霊としての姿で、目に見えずとも、生きて働かれているのだと聖書は伝えています。私たちの内では御言葉の種が育ち、私たちの間で神の国が拡げられていく。この主の働きに、私たちも加えられたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン