top of page

貫かれる赦し

マルコによる福音書3章20-30節

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、「安息日に『片手の萎えた人』(マルコ3:1)を癒した」という理由で、ファリサイ派の人々が主イエス暗殺を企て始めた出来事について聴きました。

天地創造の7日目に休まれた神に倣い、週に一度の「安息日」には、労働が禁じられました。休息を必要とされないであろう神は、何故あえて休まれたのか。その理由は、申命記5章の十戒の書き方から考えると、身分や地位の低い人々へと、「休む権利」を手渡すためだったと受け取れます。人々は労働から、奴隷は主人の支配から解放される。一人ひとりが、ありのままを貴ばれる存在として神の前に立つことの出来る安息日は、神からの賜物と言えましょう。

しかし、時の流れと共に、人々は安息日の掟ばかりに縛られ、神が与えられた休息の意味を見失います。

「他人の畑で麦の穂を摘む権利」が貧しい者には与えられていましたが、熱心な者たちは、「安息日に禁じられた労働をするのか」と批難する。癒しを願う人を端へと追いやり、尊敬を集める者が礼拝堂の真ん中でふんぞり返る。そして、自分の正義感に酔いしれて、人々に掟を強いる。そこに、安らぎはありません。

休息の日であるならば、貧しい者の空腹が落ち穂によって和げられることを願うべきではないか。萎えた手の癒しを願う者の、その願いが果たされることを望むべきではないか。だからこそ、主イエスは手の萎えた人を真ん中に立たせ、周りに居た人々に問われたのです。

「『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった」(マルコ3:4,5)。

「当たり前」や「当然」という社会の価値観によって抑圧され、端に追いやられる人々が居ました。安息日の中心は、助けを必要としている者のために開かれているべきです。彼らから、癒しと安らぎの機会を奪うことは、神の御心とは最もかけ離れた行為と言えましょう。だからこそ、「神の冒涜者だ」と言われつつも、その場で神の御心を現すために、主イエスは行動を起こされたのです。

今、私たちはこの社会に生きながら、皆の「当たり前」の枠組みを超え、神の御心に根差します。掟や義務に縛られず、解放の喜びを語られた私たちは、いかに生きるのか。本日語られた主イエスの歩みを通して、このことを考えてまいります。

「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」(3:20-22)。

主イエスが会堂で手の萎えた人を癒された出来事は、これまでの多くの病人の癒しと共に、広範囲に伝えられたのでしょう。主イエスと弟子たちは、人々の対応に追われ、食事の時間を取れないほどだったとあります。

一方、安息日の掟をめぐってファリサイ派と対立したことや、反対者たちを通して悪い噂も広められたことが窺えます。

聖書は、主イエスの誕生物語について、名もない町のマリアと婚約者で大工のヨセフの間に、聖霊を通して授けられたと伝えています。主イエスが宣教の旅をされたのは、30~33歳の約3年間だったと言われます。つまり、それまでは一つの家庭の一員として、その土地に住む人々と一緒に過ごされたということになります。

幼いころから知っている者が、突然奇跡の業によって病人を癒す旅を始め、しばらくすると宗教指導者たちからは「神の冒涜者だ」と批判されるようになる。噂を聞きつけた親類縁者は、世間体を気にし、身内の恥を拭い去るために「取り押さえに来た」のでしょうか。

(使徒言行録15章では、イエスの兄弟ヤコブが、ペトロと一線を画して人々に指示を与えています。つまり、ヤコブが教会の指導者の立場に就いたということです。後に、主イエスの家族という理由で、親類縁者は聖なる存在と考えられるようになっていきます。

しかし、マルコ福音書の著者は、過去を忘れる姿が気に食わなかったのか、「イエスは正気ではない」と言う人々の噂を鵜呑みにし、捕らえに来た彼らの姿を、あえて書き残しています。)

「イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ』」(マルコ3:23-27)。

人々が言う「ベルゼブル」、「悪霊」、「汚れた霊」(「サタン」も含める)とは、人を苦しめる存在として考えられていたようです。マルコ福音書では、それらに取りつかれた者が、鎖をちぎって自らを傷つけたり、言葉が話せなくなったり、大声で叫んだりする様子が記されています。ファリサイ派の人々は、この理解を超えた存在を利用し、主イエスを忌むべき者に仕立て上げようとしたのです。

しかし、家や国が内輪もめをして、自ら分裂する道を選ばないように、悪霊もそのような愚かなことはしないだろうと、主イエスは彼らの批難を一蹴されました。そして、続けて言われたのです。

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(3:28)。

生まれてきた意味を人は考えます。他の人から、「あなたに出会えて良かった」と言われたならば、それが今ここで生きる理由の一つとなるでしょう。一方、信念やプライドを傷つけられた時に烈火のごとく怒るのは、自分の存在が根底から揺るがされた、つまり生きることを否定されたと感じるためでしょう。ファリサイ派の人々は、聖書の掟に従って清く正しく生き、罪を避け、人々から尊敬されていました。そこに彼らの誇りがあったのです。

主イエスは、罪人たちの一員として食事をし、掟に縛られずに病人を癒し、罪の赦しまで宣言し、多くの人々に神の御心を話されました。その自由な振る舞いに、ファリサイ派の人々は、これまでの自分の歩みを踏みにじられたと感じたのでしょう。主イエスの行動が多くの人の救いとなっていたとしても、宗教指導者たちは否定されて丸裸となった自分を守ることばかりに囚われ続けたのです。

しかし、自らを守るために弱い者をないがしろにし、御自身にもケチをつけてくる者たちに対して、「犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と、主イエスは赦しを宣言されました。

「わがこころは さだかならず、吹く風のごとく たえずかわる。」(教団賛美歌333番)と表現される通り、人の行為や生き様は、土台とするにはあまりにも弱く脆いものです。だからこそ、主イエスは赦しの宣言を通して、揺るぎない神を土台とする生き方へと招かれたのだと受け取りたいのです。

競争社会では、成績、就職先、給与額、地位、財産など、「結果」によって人の価値が決められます。しかし、私たちは神の御心に根差します。神は、生きている私たちのそのままの姿を愛し、赦し、貴ばれる。私たちは望まれて、今ここに生かされ、励まされ、支えられるのです。

私たちには、この福音(良い知らせ)を受け取る自由、隣人と分かち合う自由が与えられています。私たちは、誰かを抑圧する社会の「当たり前」にではなく、神の赦しを土台としたい。神と共に在る安らぎの生活を、分かち合っていく者として歩み始めたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

bottom of page