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問われる

マルコによる福音書3章1ー12節

◆手の萎えた人をいやす 3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。 ◆湖の岸辺の群衆 3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、ファリサイ派の人々が、主イエスの弟子たちの行動が問題だと責めた出来事について聴きました。弟子たちは一体何をしたのでしょうか。

天地創造の7日目に休まれた神に倣い、土曜日は「安息日」とされ、労働が禁じられていました。現在でも、火や電気をつける行為(家電製品の利用)、商売(買い物も含める金銭のやりとり)、一定の歩数以上に歩くこと等が禁止されているようです。

この多くの禁止事項のある安息日に、弟子たちは落ち穂を拾っていたのです。食物を得るために行った落ち穂拾いを「労働」と考える場合、彼らは掟に違反したことになります。ファリサイ派の人々は、熱心であるがゆえに、「労働をせず、神へと心を向けなければならない!」と、責め立てたのでしょう。

たしかに、「安息日にしてはならないこと」(マルコ2:24)を考えることは重要ですが、厳しい状況に置かれた者を蔑ろにしてでも、その掟は果たされなければならないのでしょうか。

「十戒」には、安息日を守る理由について、「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」(申5:14)とあります。神は、立場の弱い者も休みを得られるように、安息日を定められたと受け取ることができます。

しかし、時の流れと共に、その真意は見失われ、掟の形のみが語り伝えられていくこととなります。人を守るための掟が人を縛り、罪を明らかにして裁くために利用されることとなるのです。

実際に、『旧約聖書』には「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよい」(申命記23:26)と、貧しい人の助けとなる掟も記されています。畑の所有者は義務として摘み尽くさず、貧しい者は権利として落ち穂を拾う。これは、人が支え合い、貴び合って初めて実現できる掟です。

安息日の掟を絶対視する時、この関係は崩れ、神の想いは踏みにじられることとなります。だからこそ、他者の救われる機会を奪い、自他共に掟に縛りつける人々へと、主イエスは「安息日は、人のために定められた」(マルコ2:27)のだと言われたのです。審かれるのではなく赦され、あらゆる縛りから解放される日。それが、神が人のために定められた安息日です。神の与えられる安らぎを阻む権利を、人は持たないのです。

私たちは7日目の土曜日ではなく、主イエスが復活された日曜日(週の初めの日)に礼拝を行います。主日礼拝において、私たちは何ものにも縛られずに、主がくださった安息日という賜物を受け取る者とされているのです。

あらゆるものより解き放たれる私たちは、安息日に何をするのでしょうか。本日は、主イエスの歩みを聴き、このことについて考えたいのです。

「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」(マルコ3:1,2)。

先週に引き続き、安息日に起こった出来事について書かれています。先に述べたとおり、この直前に、安息日に落ち穂を拾った弟子たちを責めた者たちへと、主イエスは「安息日が人のために定められた」と言い切りました。これを、神を蔑ろにして、人を優先する発言として受け取ったため、「人々はイエスを訴えようと思って…中略…注目していた」(3:2)のでしょう。

緊急時の医療行為は、当時の安息日にも許されたと考えられますが、癒やしの業を行ったのが主イエスであるならば話は別です。神のように振る舞う許し難い詐欺師の活動は、安息日に許すわけにはいかないのです。そのため、本日の聖句では、主イエスが安息日に片手の萎えた人の病気を癒やされるかどうかが問題とされています。

「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた」(3:3,4)。

主イエスの問いに人々が黙り込んだのは、後ろめたさのためではなく、彼らの関心が、主イエスの掟違反のみに向けられていたためだと考えられます。主イエスを敵対視する者たちの中には、手の萎えた人の病気が癒やされることを願う者は居なかった。つまり、安息日の中心に、彼の居場所はなかったということです。

主イエスに連れられ、手の萎えた人が人々の中心に立とうとも、思い直して彼の癒やしを願う声は、その場の誰の口からもあげられることはありませんでした。

「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(3:5,6)。

それまで端に居た本人の願いではなく、人々の執り成しによってでもなく、主イエスの働きかけによって、手の萎えた人の病気は癒やされることとなりました。周囲の人々は彼の癒やしを喜ぶどころか、他の派閥と結託して、主イエスを殺す相談を始めたのだというのです。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」聖書の律法(掟)には、赦されているのが善を行うこと、命を救うことだと書いてあります。聖書を見なくても、また、子どもでも、どちらが良いのか分かることです。

しかし、人々は自分の信念を守るために、問いを聞き流し、邪魔者を排除することに囚われたのです。主イエスは、なぜ殺されたのか。安息日に、隅にいる一人の人の病気を癒やしたことがルール違反とされ、殺害の計画が始められたことを覚えたいのです。

信仰生活の中では、「信仰者は、どのように生きるべきか」と考える機会が度々あります。世の中の多くの人が、「クリスチャンは品行方正で、清廉潔白な生き方をするものだ」と思っておられるのではないでしょうか。神に支えられているため、心の余裕と懐の深さによって、誰にでも分け隔てなく優しく接する。酒やタバコ、ピアスや入れ墨などとは無縁。人が嫌がることも喜んで行う。それは、これまでの信仰者を通して、人々が受け取った印象でありましょう。使徒パウロも、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ12:17)と言っています。

しかし、これらは信仰者として、最低限守るべきでも、裁くための基準でもありません。むしろ、それによって誰かを縛るならば、主イエスを十字架にかける計画をした者たちと何ら変わらないことを覚えたいのです。

人の心は移ろい、揺らぎやすいものです。自らが正しく、賢いと自惚れ、誰かを批判する。「出来ること」に固執し、出来ない人を馬鹿にする。教会に通い、主イエスの御言葉に支えられながらも、感謝を忘れ、自己中心的な生き方に繰り返し戻ってしまう。どうやっても、弱さを無くすことは叶いません。

だからこそ、私たちは主イエスの十字架を深く受け止めるのです。主イエスの十字架とは、神が審きを捨て、人を赦すことを選ばれたしるしです。この御旨を受け取るからこそ、私たちは自らの生き方を考えます。掟や義務としてではなく、愛され、赦されている者として、主イエスが世に来られ、活動された意味を私たちは考えるのです。

「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた」(3:5)。

怒りや悲しみ、時に涙を流しつつ、主イエスは人々と向き合われました。今、神が一方的に与えられる恵みを伝え、私たちの間に互いに貴び合う関係を取り戻すために、主イエスの感情は、私たちへと向けられています。この問いかけを聴くことから、私たちの新たな歩みが始められるのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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