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解放の日

マルコによる福音書2章23ー28節 2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、人々が主イエスに対して、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と指摘した出来事について聴きました。

「イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる』」(マルコ2:19,20)。

断食は、深い悲しみの表現や、神の恵み(他力本願)を体感するために、また、祈りの真剣さを神に訴えるために行われました。食べ物を断つことは苦しさを伴います。より苦しいことを乗り越えてこそ、救われるのだと人々は考えたのでしょう。次第に、人々からの尊敬を集める手段として利用されるようになるのです。

しかし主イエスは、この世界にキリスト(救い主)が来られた今、もはや断食を行う必要は無いのだと言われます。世に降られた神が共におられること以上の安心はないからです。この福音(良い知らせ)を喜び受け取る者となるように、主イエスは招かれるのです。

時間を遡れない私たちは、限られた命の中で得た物の全てを手放し、この世を去ります。けれども、主は何も持たないそのままの私たちを良しとされ、引き受けてくださいます。初めから、終わりに至るまで、私たちは生涯を通して、主に伴われます。この安心より歩み始めたいのです。

さて、本日もまたマルコ福音書2章の内容を聴きます。

「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」(マルコ2:23,24)。

主イエスの弟子たちが、他人の畑で勝手に麦の穂を摘んだことが指摘されたのではありません。『旧約聖書』には、「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(申命記23:26)と書いてあります。これは、畑を持たず、食べ物に困っている人を助けるために作られた掟でした。主イエス一行が非常に貧しかったのか、ただ小腹がすいたためかは分かりませんが、弟子たちは麦の穂を拾う権利を持っていました。

しかし、ファリサイ派の人々は、麦の穂を拾ったのが安息日だったことが問題なのだと責めたのです。安息日とは、一体何か。創世記には次のように記されています。

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である」(創1:31-2:4)。

1週間の始まりを日曜日、土曜日が安息日とされます。ユダヤ教では、日没から新しい1日を数え始めるため、金曜日の夕方から土曜日の夕方までが安息日です。十戒には次のようにあります。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジ20:8-10)。

キリスト教会ではあまりピンと来ないかもしれませんが、現在でも真面目なユダヤ教徒は徹底して、この掟を守っているようです。ユダヤ教で安息日にしてはいけないことを少し調べてみました。

例えば、火を使うことは労働となります。そのため、金曜日の夕方までには、料理を用意するそうです。また、聖書の時代には無かった電気も、火と同様に扱われます。照明(冷蔵庫内も)、エレベーター、風呂、PCや電話(携帯)、自動車、カメラなどが禁じられます。

また、お金のやりとりは商売となります。買い物はもちろん、交通機関で現金やICカードの支払いをしてもいけません。他にも傘を差すこと、決められた歩数以上を歩くことも禁止されています。

「麦の穂を拾うことは仕事に該当する」とファリサイ派の人々は、主イエスを責めました。2章の冒頭には、中風(身体の麻痺)の癒やしと、彼へ罪の赦しを宣言された主イエスの姿が記されています。その時、見ていたファリサイ派の人は思いました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(マルコ2:7)と。神を冒涜する者を野放しにはできない。いずれ裁いてやろうとの思いから、彼らは機会を窺っていたのです。

しかし、主イエスは、後に王になるダビデが、祭司のみが食べることの赦されていた聖所のパンを、仲間と食べたことを持ち出し、次のように言われました。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(2:27,28)。

「7日目に休まれた神に倣って、人も休むべきだ」とは、実に素晴らしいことです。それは、働き過ぎてしまう者たちへと与えられた、神からのプレゼントと言えましょう。先ほどは出エジプト記の十戒を見ましたが、申命記の十戒には次のようにあります。

「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申5:14)。

立場が強い分、多くの主人は横暴に振る舞ったことでしょう。神が7日目に休まれたのは、御自身の疲れを癒やすためでは無く、最も弱い立場の者たちが休むことができるようにするためだったと受け取りたいのです。

麦の穂を摘むのは、貧しい者に違いありません。「安息日だから」という暗黙の了解の中で、空腹に耐える者が居るのを、主イエスは知っておられたのでしょう。安息日は、人を癒やすどころか、裁き、苦しめる縛りとされてしまった。この誤解を解くために、主イエスは「安息日は、人のために定められた」と、宣言されたのです。

キリスト教会が、基本的に日曜日に礼拝を行うのは、主イエスの復活が日曜日だと伝えられているからです(主は日曜日にとは言っておられないが)。つまり私たちは、安息日として主日礼拝に与っているのです。

礼拝は英語でサービス(奉仕)と言われます。私たちではなく、神が私たちに奉仕してくださるひと時です。御言葉が語られ、祈りが聴き届けられ、主に伴われる者として日常へと送り出される。主が私たちのために働かれるのです。

安息日は、掟に制限されるのでも、縛られるのでもなく、日常のしがらみや立場、自らの頑なさや重荷が解かれていく解放の日です。赦され、癒やされ、包まれる。私たちは、主によって取り戻された安らぎに、今、与るのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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