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見せるためではなく

マルコによる福音書2章18-22節

◆断食についての問答 2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。 2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエスが徴税人レビを弟子として招いた後、彼の家にて、他にも従った多くの徴税人たちと一緒に食事をされた出来事を聴きました。

徴税人は、ローマ帝国への税金を集める中で、自分の収入を増やすために容赦のない収税をすることで、人々の間では盗人と同列に置かれました。けれども、貧しい人々からも多額の税を徴収したとしても、元締めに吸い上げられ、下請けの徴税人の手元に残るお金は僅かです。その仕事に笑顔はなく、怒りや憎しみが向けられつつ貧しい生活を送らねばならなかったのです。

主イエスが立ち止まり、「わたしに従いなさい」(マルコ2:14)と声を掛けられた出来事は、レビと「大勢の人」(15)の人生を大きく変えることとなりました。呼びかけを聴いて従ったとは、彼らが仕事を辞めて明日の保障を放棄してでも、他者と共に笑い、食事をする関係を求めたということです。ささやかですが、人が生きる上で無くてはならない交わりです。主イエスは共に食事をされることで、人々と徴税人の間に何の隔たりもないことを示されたのです。

「村八分」という言葉の通り、共通の敵は人に一体感を与えます。しかし、神にとっては生きる一人ひとりが喜びそのものであり、それゆえ神は、大切にされる者同士が互いに貴び合うことを望まれます。主イエスは、新たに生き始めた徴税人たちの間で、新たな交わりを始められました。ありのままを良しとされるこの交わりに、私たちも加えられています。この安心を、改めて受け取りたいのです。

さて、本日の聖句においても、当時の常識から外れた主イエス一行の生活への指摘が記されています。

「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』」(2:18)。

「食べる」ことは、実に不思議です。口から入れた食物は消化によって栄養に変えられ、存在が跡形も無く消滅するのです。私の通っていた農業高校では、実習でたまごを生めなくなった鶏の解体が行われます。首を切り、血を流してから茹で、羽をもいで食べることのできる状態に解体する。その肉が夕食に出るのです。この命が、多くの命によって支えられているのだと身をもって知らされました。食と宗教の繋がりは、そのような命の神秘に関係しているのでしょう。

「断食」を行う理由は、宗教によって様々であり、現在では健康法やダイエット、医療などにも取り入れられています。キリスト教においては、どのように考えられてきたのでしょうか。

『旧約聖書』では、もともと大切な人を失った嘆きの中で、「断食」の言葉が出てきます。食べ物が喉を通らない状況でしょうか。これが次第に、病の治癒や命の危機からの回避の願いなど、祈りと併せて行われるようになります。

サムエル記下の物語を紹介します。王ダビデは、バト・シェバという女性と結婚するために、旦那を戦争の最前線に送って殺したことでよく知られています。彼女との間の子どもが病気になった際に、ダビデは断食をしました。けれども、7日後に亡くなったことを聞いた際、ダビデは言ったのです。「主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。」(サム下12:22,23)と。断食する姿が神の心を動かし、祈りの効力を高めるかのように捉えられていたことが分かります。

『新約聖書』の時代に至っては、定期的に行うべき宗教的な儀式として定着していたようです。マタイ福音書には、「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」(6:16)とあります。もはや神に対してでもなく、周囲の人々へと見せつけるために行う者も居たようです。

いずれにしても、断食は、自らの願う方向へと神の御心をねじ曲げようとする人間の行為であることが分かります。

「イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる』」(2:19,20)。

婚宴の花婿とは、これから十字架の死と復活によって、全ての人に赦しを示される主イエスのことを指しています。救い主が共におられるからこそ、いずれ訪れる別れまで、弟子たちが断食することはないのだと言われるのです。

ここで、二つのたとえを持ち出されます。一つ目が、古い服と新しい接ぎ布の話です。水にさらしていない新しい布は、洗うことで縮みます。その力で、古い布が引き裂かれてしまうのです。二つ目が、古い革袋と新しいぶどう酒の話です。果物の急激な発酵は、革袋を内側から突き破ります。そのため、新しい革袋を用意しなければならないのです。

主イエスはたとえ話を通して、「救い主が来た知らせを受けた者は、古い習慣に縛られるのではなく、新しく生き始める必要がある」と言っておられるのです。イザヤ書には、次のようにあります。

「見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。…中略…そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。……わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」(イザヤ58:4-7)。

イザヤ書は、新約聖書の時代よりも500年ほど前に記されたと言われます。遙か昔に神の御心が告げられたにもかかわらず、儀式の形のみが残されることとなりました。神のためではなく、隣人のためでもなく、自らの正しさを証明するためだけに行われる断食は、実行する意味をも失ったのです。

私たちが生きるためには「確信」が必要です。祈りが聴き届けられるという確信。苦難の先に安らぎがあるという確信。死の先に神と共に生きる命があるという確信。「大丈夫だ」という確信に至るために、人は何らかの行動を起こさずにはいられないのです。

しかし、主イエスは新しい生き方へと招かれます。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」(マルコ2:19)。

私たちは、自らを律し、苦しみに耐え抜くことで理想の自分に近づいていくのではありません。世に来られた主イエスを喜ぶ中で、語られる言葉によって、実は私たち自身が神に喜ばれる存在であることを知らされます。これほどまでに私たちを愛される、主に伴われる安心の中にこそ、揺るぎない確信があるのです。それは、私たちの行動によるのではなく、神の望みによって手渡される恵みです。

社会は、競争と比較によって人の価値を定めます。そして、よく思われたいという感情が、自らのありのままを否定し、理想の姿を目指すように急かします。他人の芝が青く見えるのは、皆が無理をしているからです。

しかし、主によって明らかにされた福音を受け取った私たちは、この身が丸ごと受け入れられた者として新たに歩み始めます。足りない部分は補い合うように、隣人と共に生きるように招かれています。主と友と共に生きる時、私たちは与えられたままのこの命の素晴らしさに気づかされるのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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