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罪人の一人として

マルコによる福音書2章13-17節

2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。

2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。

2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週は、4人の男が主イエスのおられる家の屋根を剥がし、そこから「中風の人」(2:3)の床をつり降ろし、彼の癒やしを願った出来事について聴きました。

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(2:5)。

「病気=罪の結果」ではありません。身体の癒やしよりも先に、主イエスがわざわざ罪の赦しを宣言されたのは、中風の人の身体の麻痺が罪の故だと噂されていたためだと考えられます。

しかし彼には、動かせない身体を運んでくれる4人の人が居ました。そして、他人の家の屋根を壊してでも「中風の人」を連れてきた彼らの期待と信頼の故に、主イエスは赦しを宣言し、麻痺をも癒やされたのだというのです。

「正しさ=救い」として考えられていた時代にあって、主イエスは一人の人間の信仰や正しさとは無関係に、他者の願い(祈り)によって、神より与えられる赦しと癒やしがあることを示されました。これをキリスト教会では「とりなし(の祈り)」と呼びます。個々人の内ではなく、互いにとりなす関係の中でこそ、神の御業は見出されます。

生い立ちも、性格も異なる私たちの想いが一つとされるのは、唯一、神に心を向ける時です。私たちは、互いに祈り合う教会(一つの共同体)として、この地で生かされていきます。置かれた状況は異なろうとも、共に主の御言葉を聴くことから、この歩みを始めたいのです。

「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」(2:13)。

2章の冒頭に多くの人々が押し寄せたと書かれていますが、この後、主イエスは中風の人の罪の赦しを宣言し、身体の麻痺を癒やされました。この噂も広まったのか、家を離れて湖のほとりに行こうとも、人々が後に従うほどの状態だったようです。

主イエスは、湖で彼らに語り終えられた後、再び歩き出しました。その道行きで、その場に居た者たちが困惑する行動をとられたのです。

「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(2:14)。

収税所に座るのは、ユダヤ人の徴税人です。彼らは、ユダヤ人の領主ではなく、地中海一帯を監督下に置いていたローマ帝国への税を集めていました。

『旧約聖書』では、外国の宗教や文化に触れて神に背くことのないように命じられていますが、問題は掟だけではありませんでした。自分たちの故郷が、外国の監督下で踏み荒らされ、小都市群が開発されていくのです。多くの移民が流れ込みつつも、彼らの方が権力をもっているために、指を咥えて見るほかない状態です。この状況で、外国を豊かにするだけの税金を払いたいと思う者はいないでしょう。

また、徴税人の組織にも問題がありました。彼らも徴税が仕事ですから、規定以上の金額を取らなければ自らの懐には何も残りません。徴税人の頭は、皆の儲けを吸い上げて裕福な暮らしをしていたようですが、下っ端の回収者は、さらに多くを巻き上げなければ生活できません。それゆえ、人々にとって徴税人は泥棒であり、同胞から利子を取ることを禁じる聖書の律法に違反する罪人でした。最も人々に近い収税所に座る下っ端徴税人に対して、人々の怒りが向けられるのは当然です。

しかし、あろうことか、この徴税人の下っ端回収者「アルファイの子レビ」に対して、主イエスは「わたしに従いなさい」と招かれたのです。

この出来事を、人々がどのように見ていたのかが、後に行われたレビの自宅での食事会で明らかとなります。食事は親密の証しですから、地位が高い者が同席することは、主人のステータスとなります。それゆえ、食事は道行く人へと公開されていたようです。

「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」(2:16,17)。

罪人や徴税人と食卓を囲むとは、彼らと親密であることの表明です。噂と注目の的にありながらも、自ら地位を低める行動をする主イエスを理解できなかったのでしょう。直接主イエスに尋ねられなかった律法学者たちは、弟子たちへと質問しました。沈黙する様子から、弟子たち自身もこの状況を不本意に思っていたことが窺えます。徴税人は、業務外での会話や食事を避けられ、人々から嫌われていた、仲間として括られたくない存在と考えられていたということです。

しかし、彼らに対して、主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのです。

正しく生きることができている者ではなく、罪人というレッテルを貼られた(決めつけられた)者にこそ、真に赦しと救いが必要です。主イエスの呼びかけに、レビがすぐに従ったのは、そのような耐えきれない日々の中で、救いを求めていたためでしょう。

主イエスは、レビの前で立ち止まって声をかけ、彼の家に行って、食事をされました。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:6)と言われるほど、その様子は楽しげだったのでしょう。徴税人は、徴税人であることで、共に生きる者の交わりから排除されました。しかし主イエスは、彼らと共に過ごされることにより、再び彼らへと「人との交わり」を取り戻されたのです。それは、神の結ばれる交わりにおいても、彼らがその輪の中に置かれる存在であることのしるしです。

人が人の上に立ち、支配する時、そのしわ寄せは末端を生きる者に押し寄せます。注目の的である主イエスが、憎まれる徴税人たちと共に食事をされたことで、支配の構造は覆され、等しい者として共に生きる関係が示されました。ここに、神の御心があるのだと受け取りたいのです。

マルコ福音書には、これ以降、弟子の召命は記されていません。4人の漁師に続き、5人目に弟子となったレビについて書き残すことが重要だったのでしょう。主イエスは、社会の中で招かれざる者を招き、共に生きる関係を結ばれました。罪、貧富、出身地、能力などの隔たりのない交わりが、主イエスの元にはある。12人という枠を越えて、時代を超え、5人目に続く弟子として、今の私たちが共に生きる関係に招かれていることを覚えたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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