三位一体
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、私たちは「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」を迎えました。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1-4)。
主イエスが天に帰られた50日目に、聖霊なる神が世に降り、弟子たち一人ひとりの上にとどまられました。この出来事により、弟子たちは周辺各地の言語によって主イエスを証しし始め、この日、彼らの言葉を聴いた者たちの内、3000人が洗礼に至ったのだというのです。ひとたび十字架の前から逃げ去った弟子たちを通して、御言葉は世界に拡げられることとなりました。それゆえ、聖霊降臨祭は「教会の誕生日」とも呼ばれるのです。
ペトロは語り始める際に、「すべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」(使2:14)と言いました。裏切り、自らの弱さと罪深さに打ちひしがれた時、彼は真に主イエスの関わりや御言葉に励まされ、そこに福音(良い知らせ)を見出したのでしょう。
聖霊なる神は、人を導き、押し出し、引き回す方だと、そして、人に聖書の御言葉を届け、信仰を起こされる方だと伝えられています。すなわち私たちは自らの行動ではなく、聖霊の招きによって教会に集められたと言えましょう。傷つき、痛みを負うこの身が、主によって用いられます。聖霊なる神に伴われる安心の内に、私たちは自らの日常へと歩み出したいのです。
さて、本日は三位一体主日です。キリスト教会の神は、「三位一体(さんみいったい)」と表現されます。神はお独りですが、父と子と聖霊という三つの異なる姿を通して、人に関わられる方として捉えられているからです。
聖書の中には、「三位一体」という言葉は記されていません。紀元325年の公会議(カトリック教会の全体会議)において、キリスト教の神を「三位一体」と表現するよう定められました。ちなみに、式文の信仰告白にある『ニケヤ信条』では異論が入り込む余地を無くし、誤解も生じないように、くどいほど徹底的に三位一体の神について論じられています。要するに、父なる創造主、子なるイエス・キリスト、聖霊は、呼び名や人への関わり方が異なろうとも、お独りの神のことだと証しされているのです。
三位一体の神は、私たちへとどのように関わられるのでしょうか。
『旧約聖書』は、父なる神(創造主)について記されています。
神は、この世界と生き物と人間を創造され、すべての被造物が神に命を吹き込まれて生きているのだと自覚することを望まれました。
けれども、人は神の想いを理解せず、約束を破りつつも自分は悪くないと責任転嫁したり、他者と争い、憎しみによって相手の命さえ奪う。神に成り代わろうと試み、他の神を崇めることにより、創造主の御旨を踏みにじるのです。そのように罪に傾き、繰り返し背く者たちへと、神は怒りや憐れみをもって臨まれ、時に預言者を派遣して立ち帰るように招かれました。何千年も経とうとも根気強く「人間の歴史に介入される神」の姿が、旧約聖書には描かれているのです。
父なる神は常に人々と共に居る中で御旨を告げられました。こうして、歴史書、律法の書、預言者の活動録などとして書き残され、聖書が生まれたのです。
西暦の紀元に入った頃、パレスチナ地方には聖書を研究し教える多くの教師たちがおり、エルサレム神殿だけではなく、各地に礼拝のための会堂が建てられていました。当時は、周辺一帯がローマ帝国の監督下に置かれ、その強大な力によって戦争が少ない時期ではありましたが、民の間には貧富の格差があり、そこから抜け出せない状態に置かれていたようです。
聖書を手にしつつも、神の御心を誤解するばかりか人々から取り上げられ、一部の権力者が自らを正当化する手段として利用する。そのように、力の強い者を中心とする社会の中で、端に追いやられ、苦しさに叫ぶ者の声を聴き、主イエスはこの世に降られたのです。
主イエスの歩みは、聖書や信仰告白の内容が示す通りです。
「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます」(使徒信条より)。
主イエスは、誰も見向きもしない場所に赴き、軽んじられる者の手を取り、その人の存在そのものを喜ばれました。そして、武力や権力によるのではなく、無力の中で死に、その後に復活の命を示されることを通して、朽ちることのない神と共に生き続ける安心を教えられたのです。
主イエスが天に帰られた後、弟子たちは共に旅をした主イエスの生涯に救いを見出し、その御言葉を地の果てにまで宣べ伝えました。痛みや恐怖に耐えられずに、主イエスの十字架から逃げ去った彼らは、何故多くの迫害者の居る外へと踏み出すことができたのでしょうか。それは、冒頭の御言葉にあるように、聖霊なる神が弟子たち一人ひとりと共に在ることを彼ら自身が知り、揺るぎない安心を得たためです。
福音書の後に続く『使徒言行録(昔の呼び方は使徒行伝)』には、使徒(弟子)たちの宣教が記録されています。ただし、彼らは旅先での困難を自らの力によって越えていくのではなく、聖霊によって守られていくのです。それゆえ、「使徒行伝」ではなく「聖霊行伝」、つまり使徒たちではなく、聖霊が働かれる物語なのだと言われます。
主イエスとしての生涯を終えられた神は、それから10日目に聖霊として世に降られました。そして、聖霊としての姿で、弟子たちが生涯を閉じるその時まで、その歩みに伴われたのです。
ユダヤ人の議員で、真剣に神の御旨に生きようと願っていたニコデモという人物が訪ねてきた際、主イエスは言われました。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:5-8)。
「聖霊(ヘブ:ルーアッハ、ギリ:プネウマ)」という単語は、両者共に息や風と訳すことができます。聖霊なる神について、私たちは主イエスの言葉以上の事を知ることはできませんが、しかし、目に見えなくとも風がいずれの場所にも吹いているように、聖霊もまた、私たちの傍におられるのだというのです。洗礼とは、この方を知るために受けるものではなく、聖霊に伴われる人生の出発と言えましょう。
天地創造の神と聴くならば、どこか遠くに居られ、人の歴史を見つめる大きな存在のように思えます。しかしこの方は、人としてこの世に来られ、最も弱い者の一人として、人々からの憎しみと死を引き受けられました。そして、復活の御業を現して天に帰られた後、聖霊として世に降り、今も生きて働いておられるのだと伝えられています。すなわち、神という身分を捨て、人としての命を捨て、今、その存在を捉えることさえできない私たちに仕える者として働いておられるということです。
三位一体とは、神が私たちに近い場所へ、より低い所へ来られたことを現します。聖霊降臨の出来事を記念した私たちは、聖霊なる神が働きかけてくださることを覚えつつ、この命を改めて生かされる者とされたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン