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聖霊なる神 (ペンテコステ)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週はルカ福音書の内容を通して、主イエスが死海の北西に位置するベタニアへと弟子たちを連れて行き、そこで彼らと別れ、天に帰られたという出来事を聴きました。

復活より40日目の主イエスの昇天は、弟子たちにとっては別れの出来事です。しかし、悲しむのではなく、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ24:52,53)とあります。それは、主イエスの出処が天であることを、この時に初めて理解したからだと受け取れます。

使徒言行録では、次のように語られています。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:10,11)と。主イエスは両手をあげて弟子たちを祝福しつつ天に昇られましたから、「同じ有様」とは祝福の姿勢で再び来られるということでしょう。弟子たちの目には、天に昇られる主イエスの姿は見えなくなりましたが、再び来られる時まで祝福し続けられる主イエスが、弟子たちを見失うことはないのです。

今、主イエスの祝福は、私たちへと向けられています。私たちが生まれ、生き、死を迎える時に至るまで、いかなる時も、私たちは主の祝福の内に置かれます。主イエスの昇天の出来事により、弟子たちは閉じこもる者から祝福されて出かけて行く者へと変えられたように、私たちもまた、安心して出かける者とされたいのです。

さて、本日は、キリスト教会における三大祭りの一つである「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」です。ペンテコステとは、「50番目」という意味のギリシア語です。なぜ、50番目と呼ばれるのか。それは、「聖霊なる神が弟子たち一人ひとりの上に降った」という出来事が、主イエスの復活より50日目に起こったと伝えられているためです。

キリスト教会において、神は「父と子と聖霊」という三つの異なる姿で、人に関わってくださる方であると証しされます。神は主イエスとして世に降られ、天に帰られましたが、この後、聖霊の姿で、再び世に降られたのだというのです。

ルーテル教会の主日礼拝では、主に新約聖書、特に福音書の内容から説教が語られます。そのため、主イエスの歩みや御言葉を聴くことは多くとも、再び世に来られたと言われる「聖霊なる神」について説明されることが少ないのではないかと思います。

しかし、私たちの信仰生活は、実は聖霊なる神の働き無くしては成り立ちません。だからこそ、本日は聖霊について考えたいのです。

聖書において、聖霊が最初に登場するのは創世記1章であり、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創1:1,2)と記されています。天地創造のはじめに神の霊が水面を覆っている通り、聖霊は被造物を外側から包む方として聖書で描かれています。そして、この「外側から包む」ことが、洗礼に深く関係しているのです。

洗礼者ヨハネは、主イエスが来られる以前に、ヨルダン川周辺で「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えた人物として、聖書に登場いたします。洗礼とは、水に全身を浸し、起き上がることを通して、新たに生きる者とされる儀式です。掟を守り、神殿に巡礼し、教師により御言葉を聴いても赦しや救いを実感できなかった当時の人々は、こぞって洗礼者ヨハネの元に集いました。その際、彼は次のように語りました。

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(マルコ1:7,8)。

「洗礼(バプテスマ)」は、「全身を浸す」という意味を持ちます。聖霊による洗礼とは、聖霊によって全身を浸されるということでしょう。つまり、外側から包まれることだと受け取ることができます。

本日の第二の日課では、主イエスの復活から50日目(昇天から10日目)に起こった聖霊降臨の出来事が語られていました。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1-4)。

聖霊は、御自身の身を裂かれ、弟子たち一人ひとりの上にとどまったとあります。まさに聖霊による洗礼です。私たちの洗礼もまた、弟子たちと同様に、水ではなく聖霊なる神に外側から包まれる出来事だと言われます。

では、聖霊がとどまることで、人の歩みにどのようなことが起こるというのでしょうか?

主イエスが3年間の旅を始められる直前に、洗礼者ヨハネの元で洗礼を受けられた際、天が裂け、そこから聖霊が鳩のように降ったとあります。この後、主イエスは荒れ野で40日間を過ごされました。この出来事において、各福音書が異なる聖霊の働きを伝えていることに気づかされます。

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ4:1)。

「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(マルコ1:12)。

「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(ルカ4:1,2)。

導いて同伴する、背中を押して送り出す、望む望まないに関係なく必要な場所へと引き回すという、聖霊の3つの異なる関わりが表現されています。つまり、私たちがそれぞれに身を置く場所、置かねばならない場所とは、聖霊の働きによると考えることができるのです。理由のない苦難に、人は耐えることができません。しかし、聖霊によって派遣されたのであれば、私たち自身の現状は決して無意味なもので終わることはありません。送り出された以上、聖霊が私たちの歩みに常に同伴してくださることを覚えたいのです。

また、多くの手紙を書き記した使徒パウロは、聖霊の働きかけがなくては、「信仰」が成り立たないことを教えています。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリ12:3)。

主イエスを救い主と証しすること、つまり、私たちが聖書の言葉を受け入れることが出来るのも、それによって励まされる出来事も、聖霊の御業なのだとパウロは教えています。

「神の霊がわたしを造り/全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ」(ヨブ記33:4)。

旧約聖書はヘブライ語で記されていますが、聖霊は「ルーアッハ」という単語で表現されています。ルーアッハは、他に息や風と訳されます。

人の内から、聖霊が勝手に湧き上がることはありません。神の息吹を吹き入れられ、人は生きる者となると聖書は伝えています。私たちの内には命の息吹としての霊が吹き込まれ、外側には語りかける聖霊がとどまっている。外と内の霊が深い繋がりにあるからこそ、私たちの内に御言葉が届けられ、神を知る者とされるのでしょう。

旧約聖書には、神に成り代わろうと天に届くバベルの塔の建設をした人々が、審きによって言語を分かたれ、各地に散らされたと記されています。聖霊降臨において、弟子たちが各地の言語で主イエスを証しし始めたとは、散らされた者たちが再び一つに集められる、バベルとは逆の出来事と言えましょう。この時、ペトロは「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」(使徒2:14)と声を発しました。自らにとって最も大切なことを伝えたいと、人々に語りかける者として歩み出したのです。

この世には国境、垣根、心の壁などの隔たりや溝が多くあります。反発し合う者を結びつけるのは、一人ひとりを包まれる聖霊の働きに違いありません。今、私たちは一体何を伝えたいでしょうか。派遣された場で、聖霊に伴われつつ、与えられた安心を隣人に伝えたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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