主より始められた掟
ヨハネによる福音書15章11-17節 15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、人々に捕らえられ、十字架へと引かれていく直前に、主イエスが弟子たちへと語られた御言葉より聴きました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)。
主イエスは、御自身を「まことのぶどうの木」(15:1)だと、そして、弟子たちを御自身に繋がる枝だと言われました。幹から切り離された枝が枯れるように、主イエスと切り離された者も同様に枯れてしまうのだというのです。
昨日、父方の祖父が89歳で天に召されました。戦時中の家財疎開に伴い、先生の自宅を整理していた祖父は、変わった形と色の小型の本を見つけました。これは何かと聞くと、先生は黙ってポケットに本を隠したのです。しかし、翌日終戦を迎えたため、再度家財を戻さなくてはならなくなったのです。その時、先生より隠した本はキリスト教の聖典で、昨日まで禁断の書だったと教えられました。後に、福岡に下宿した祖父は教会を見つけ、どうしても禁断の書の中身を知りたくなり、御言葉と対峙する中で自己中心的に生きてきたことに衝撃を受け、洗礼に至ったようです。
もともと寡黙だった祖父は、年齢を重ね、次第に目が見えなくなっていくにつれ、更に静かに生活をするようになりました。しかし、体調が崩れることがありつつも、祖父は天に召されるまで、可能な限り説教題を書く奉仕を続けたのです。そのような姿を知っていたからこそ、祖父が死の先においても主と共に在る希望を見出していたに違いないと確信しています。
主という幹より離れるならば、死は断絶と悲しみの出来事でしょう。しかし、一寸先をも知り得ない私たちでありながらも、主の言葉を通して、死の先に備えられる希望を聴き取るのです。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(15:9)。
この宣言が如何に揺るぎない安心となるかを、祖父の最期の姿より改めて知らされました。神の御旨に根ざす主イエス・キリストという幹に、今、私たちは繋がれています。それは私たち自身の選択ではなく、主の願いによって果たされる恵みであることを覚えたいのです。
さて、本日は先週の御言葉の続きより聴いてまいります。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15:11-12)。
経済の成長とインターネットの普及により、私たちは以前よりも簡単に、望む情報を世界中から得ることができるようになりました。ただ、情報が増えようとも一人が吸収できる内容は僅かですし、真偽を確認しながら選択しなくてはなりません。現代では自由に学ぶことが出来るようになろうとも、依然として人は悩み、互いに傷つけ合い、失敗を繰り返します。時代は移り変わろうとも、人の在り方は共通していくのだと多くの書物より伝えられています。ここに、限りある命を生きる者たちと、この社会の限界を表しているかのようです。
しかしだからこそ、主イエスは、人の理解を遙かに超えた神の御心を明らかにすることにより、人間を主体とするのではなく、生きて働かれる神に注目するように教えられました。
先週のたとえ話によれば、人は自らの力で生きていると錯覚していようとも、実は神という大地にしっかりと根を張る主イエスという幹に繋がれる枝なのだということ。そして、農夫である神の手入れのゆえに、弱々しい枝であろうとも折れることなく繋がれているのだと告げられています。人が神に従ったことへの報酬ではなく、神の願いにより、人は主に連なる枝だと宣言されるのです。
神を主体して考える時、競争や比較、人の努力や功績にかかわらず、私たちが「神に貴ばれる者として生かされる」という福音(良い知らせ)が浮き彫りとなります。私たちがこの福音を聴き、神に心を向けることこそ、神の喜びなのだというのです。それゆえ、神に喜ばれる者が互いに尊重し、大切にし合うように、主イエスは招かれるのです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15:13-15)。
高校時代の私は、人のために何かをしたいと願っていました。それゆえ、主イエスのこの御言葉に衝撃を受けたことを思い起こします。
私たちは、自らの分として一つの命を託されています。裏を返せば、生きることも死ぬことも一度限りだということです。最大の愛が「友のために自分の命を捨てること」であるとしても、恐ろしくて実行できませんし、どのようにこの命を人のために捨てることができるのかなど検討もつきません。私が命を捨てて愛を示そうとも、それは自己満足に留まり、死んでしまえば相手は愛し返すことが出来ないため、互いに愛し合ったとは言えないのです。どうやっても、主イエスの言われる大きな愛を果たせず、貫き通すこともできないのだと思い知らされました。人を主体として考えるならば、ここでも限界にぶつかるのです。
ここで語られる「友のために自分の命を捨てる」とは、主イエスの十字架の出来事を指します。すなわち、主体は主イエスです。
主の十字架の死は、私たちのための「犠牲」として締め括られてはいません。その先で主が復活されたと聖書は伝えています。一方的な死によって、愛で結ばれるべき関係が断たれることの無いように、主は復活された姿を示されました。そして、天の父の御許に昇り、再び聖霊として降り、私たちの生涯に伴い、生きて働かれることを通して、最も大いなる愛、つまり「友のために自分の命を捨てる」ことが、その時限りの出来事でないことを、私たちへと証しし続けてくださるのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(15:16,17)
人が主イエスの言われる最も大いなる愛を果たすことは限りなく難しいことです。しかし、このことを承知されていたからこそ、主イエス御自身がその愛を果たし、今後、他の誰も繰り返す必要がないように今も働き続けておられることを信じます。
では、「互いに愛し合いなさい。」との主イエスの掟を果たすために、私たちは何をすればいいのでしょうか。まずは、聖書の御言葉を通して、主体となって働いてくださる主の姿を「聴く」こと。そして、自らの中心を主に譲り、確かに主が主体となって私たちの生涯に働きかけてくださっていることを「知らされる」ことでありましょう。
主は、たった一つの掟さえ果たし得ない私たちを選び出し、共に働く者となるように招かれます。それは、何かを果たすよりも前に、ありのままの私たちが「主の喜び」とされていることのしるしです。私たちは、十字架の死と復活の出来事を通して果たされた最も大いなる愛を互いに分かち合いたい。そして、私たち自身が主の喜びであると宣言されたように、今、主と共に福音を告げる者とされたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン