ぶどうの木と、その枝
ヨハネによる福音書15章1-10節
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、復活された主イエスが、最初に弟子とされたペトロへと、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21:16)と3度問われた出来事を、ヨハネ福音書より聴きました。
「ペトロ(岩)」というあだ名や、聖書に記されている物語から、シモン・ペトロが頑固で、一直線に主に従おうとしていたことが伝わってまいります。それゆえに彼は、自分が他の者たち以上に主イエスに近く、弟子の中でも特別だと自負していたことが分かります。
しかし、命までかけると誓ったものの、主イエスが十字架にかけられる際、「お前は仲間だった」と指摘する者たちに対して、ペトロは3度「イエスなんて知らない。無関係だ」と強く訴えたのです。
主イエスの復活により、死の先に「神と共にある命」があるという福音(良い知らせ)が、この世に告げられました。ただ、復活の主との再会は、裏切った者たちにとっては自らの罪が明らかとなる、恐ろしい出来事ともなるのです。
固い誓いをも果たせず逃げ去り、呪いの言葉さえ口にして3度「無関係だ」と語ったペトロに対して、復活された主イエスは3度、「わたしを愛しているか」と問われました。ここに、赦され得ない罪に苦しむペトロを想い、赦しへと招く主イエスの姿があるのです。
主の十字架は、人の罪を明らかにすると同時に、皆が赦されるべき者として受け入れられていることのしるしです。正しく在り続けることはできずとも、罪あるこの身が、丸ごと主によって引き受けられることを信じます。やり直しが難しいこの世界の中で、際限のない赦しによって、新たに生きる者となることを望まれる主の招きを、私たちは聴くのです。競争社会は人の優劣を定めます。しかし、私たちは主の十字架の前に立ち、等しく主に大切にされる者として、隣人と共に歩み出したいのです。
さて、イースター以降、復活の主が如何に行動されたのかを辿ってまいりましたが、本日は、十字架に引かれていく直前に、主イエスが語られた御言葉より聴いてまいります。
別れを控えた最期の晩餐で話されたとは、すなわち、主イエスが弟子たちへと最も伝えた事柄だったということです。主イエスは、彼らに何を語られたのでしょうか。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)。
非常にイメージしやすいため、教会において老若男女問わず親しまれている聖句の一つです。
日本は湿気が多く、年間を通して雨が降るため、ぶどうの木は水はけの良い山の斜面に植えられます。水分が多いと甘くなくなるため、雨季にはビニールで屋根を作るのです。そのため、生活の場で、私たちがぶどうの木を直接見ることはあまりありません。
しかし、パレスチナ地方は乾燥しているため、人目につく至る所で、ぶどうは栽培されていたことでしょう。そのため、主イエスは皆がイメージしやすいぶどうの木をたとえに出して、神と人との在るべき関係を教えられたのです。
ぶどうの木に限らず、枝は幹から切り離されれば枯れてしまいます。根っこから吸い上げられた水や養分は、幹を通って枝全体に送られるからです。幹に繋がっていることで、枝は伸び、葉を茂らせます。葉っぱの光合成によって成長しているように見えても、やはり枝のみの力では、実をつけることができないのです。
それは、幹自体にしても同じように言えるでしょう。いかに幹がしっかりとし、多くの枝を伸ばしていようとも、根っこがなければ成長しないどころか枯れてしまいます。水や養分が溶け込む豊かな大地に深く根差す時に、根っこはその役割を果たすことができます。すなわち、大地が根を支え、根は水や養分を吸い上げ、幹を通して枝全体が強くされていく。この連なりのどれか一つでも欠けてしまえば、実りには至らないのです。
人間もまた、一つの連なりの内に生かされています。人は食べ物だけではなく、出会いや出来事という「糧」によって成長の機会が与えられます。ただ、そのためには、この世界が在り、傍らに隣人が居るという前提が不可欠です。多くの努力や選択によって現在の私が居るとしても、神が世界を、人間一人ひとりを形づくられなければ、今のこの私は存在し得ないのです。
信仰においても、同様に考えることができます。
主イエスは、御自身こそ「ぶどうの木」、つまり「幹」であり、私たちは「その枝」だと言われます。枝が自らの力のみで成長し、実をつけることができないように、私たちは主イエスと繋がることにより、豊かに実を結ぶのだというのです。
確かに、教会に集うキッカケは、私たち自身の選択によると考えることができます。しかし、語られる御言葉、教会での出会い、日常での発見など、主という幹を通して与えられる糧により、私たちは日々豊かにされてることに気づかされます。
では、「まことのぶどうの木」は、どこに根差すのか。主イエスは、苦難と十字架の死を承知された上で、父なる神によって示された道を歩み抜かれました。すなわち、主イエスというぶどうの木が根差す大地とは、父なる神の御心であることを知らされます。ヨハネ福音書は、神の願いについて次のように伝えています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16,17)。
主イエスの十字架の出来事こそ、私たちを赦し、受け入れられる父なる神の御心が現されます。
人は、主というぶどうの木に連なるには相応しくない、弱々しい枝であるかもしれません。そのような私たちが、枝として繋がれ続けているのは、「わたしの父は農夫である」(15:1)と言われるように、父なる神が、日々折れることの無いよう手入れをしてくださっているからです。
また、ルカ福音書では、『「実のならないいちじくの木」のたとえ』において、次のように語られています。
「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」(ルカ13:8,9)。
固い誓いさえ貫き通せない弱さを御存知の上で、主は期待を込めて切り倒されぬよう私たちの赦しを願い、手入れを続けてくださいます。私たちに手渡される赦しとは、この主の覚悟において与えられる恵みなのです。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。」(ヨハネ15:6)と言われつつも、無意識に自ら離れようとする私たちを繋ぎ止めてくださる主の想いを覚えたいのです。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(15:9)。
神は、裁くのではなく赦すために主イエスを遣わし、切り捨てるのではなく結びつけるために十字架と復活の出来事を果たされました。私たちは、自らの選択で主に連なっているのではなく、主に選ばれ、繋ぎ止められているのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15:5)とは、「いかなる時も、私たちが主と結ばれ続ける」という宣言です。そして、この約束は主以外の何者によっても覆されることはないのです。
ぶどうの木が根差すのは、神の御心です。主を通して、その出処である神の愛に気づかされることにより、揺らぎやすい私たちは、揺るぎない安心に与る者へと変えられます。人を赦し、結ぶ神の御心に私たちは根差す。この福音を受け取り、また隣人へと告げたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン