主が遣わされる
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、私たちは復活祭(イースター)を祝いました。
主イエスが十字架の上で息を引き取られた後、旅に同行していた女性たちは、名乗り出たユダヤ人の議員と共に主の遺体を降ろし、墓に納めました。労働が一切禁じられていた「安息日」が迫っていたため、急いで布で巻き、大きな石で入口に蓋をしたのでしょう。そのため、改めて弔いの習慣を果たすため、女性たちは翌朝早く墓へ向かいました。
しかし、女性たちが到着した時には、既に入口の大きな石は取り除けてあり、中は空だったのだというのです。すぐに事情を伝えられた弟子たちが確認に走りましたが、やはり主イエスの遺体はなく、体を巻いていたはずの亜麻布と、顔を覆う布のみが別々の場所に置いてあるだけでした。
神を礼拝するための「安息日」には、家と会堂を行き来する程度の歩数制限がありましたから、早朝に出かけた女性たちの他に、墓を訪れる者はいなかったことでしょう。そして、彼女たちの力では動かせない石が入口に置かれていました。だからこそ「空の墓」は、主イエス・キリストの復活のしるしとして、驚きと共に言い広められたのです。
さて、先週はヨハネ福音書の伝える復活物語が告げられましたが、本日はマルコ福音書16章9節から始まる御言葉より聴きいてまいります。この16章で、主イエスの復活はどのように伝えられているのでしょうか。
マルコ福音書では、まず、主イエスの墓に向かったのは、3人の女性たちのみだと語られています。空の墓を覗いた彼女たちは、そこで白い服を着た若者と出会いました。
「若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と。』婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:6-8)。
本来この16章8節がマルコ福音書の結びであり、続く16章9節以降の内容は、後の時代に書き加えられた物だと言われます。
けれども、この終わり方では、キリスト教にとって重要である復活後の主イエスの歩みが語られないままです。それゆえ、10年ほど後に、マタイ福音書とルカ福音書が記されることとなるのです。この2つの福音書では、「降誕」と「復活後」の主イエスの姿が明確に伝えられています。そして、次第に2つの福音書と比較されるようになり、マルコ福音書に物足りなさを覚えた後の時代の人々が、復活後の主イエスの姿を書き加えたのでしょう。
いずれにしても、マルコ福音書の著者が締め括りで記したのは、「主イエスは、墓から出てガリラヤに行かれた。」という御言葉を謎の若者から告げられつつも、女性たちは恐怖により口を閉ざしたという出来事です。
宣教開始の地であるガリラヤに戻り、復活の主は何を為そうとされたのでしょうか。この答えを知るために、読み手の内に、再び1章より読み始めずにはいられない気持ちが起こされます。その時、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)との主イエス宣言を、改めて聴くこととなるのです。
「結び」を「旅の始め」に繋げ、改めて読み始めるように促す構成こそ、マルコ福音書の一つの魅力であることを覚えたいのです。
私たちは、これより16章9節以降の内容を聴きます。この加筆には、当時の人々の信仰が映し出されています。主イエスとの出会い、復活を信じた人々は、ユダヤ教からの離反を理由に迫害される中、御言葉から何を聴き取ったのでしょうか。
「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(16:14)。
マグダラのマリア、そして田舎へと向かった二人の前に、主イエスは復活された姿を現されました。ただ、その知らせを受けても、人々は信じませんでした。現代に生きる者と同様に、当時の人々にとってもまた、「復活」は到底受け入れることのできない出来事であったことが分かります。主イエスを通して御言葉を聴き続けていたはずの弟子たちも、例外ではありませんでした。
それゆえ、マグダラのマリアと二人の証言が退けられた「その後」、主イエスは11人で集まる弟子たちの間に来られたのです。
「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る』」(16:15-18)。
書き加えられた結びで問題とされるのは、「信じるか」「信じないか」という二者択一です。
既に主イエスは御言葉を通して復活を告げており、遺体を埋葬したはずの墓は空だった。そして、復活の主と出会った者たちの証言が語られている。これらの出来事一つひとつが、主イエスの復活を指し示しています。つまり、「全てが主の御業であり、これらの出来事を通して、人々へと復活が告げられた」と言い換えることができましょう。
死に打ち勝ち、確かに主イエスが復活されたとは、この世に生きる全ての者にとっての福音(良い知らせ)です。死さえも圧倒される力を持つ主が共に居られるならば、これほど心強いことはないからです。それゆえ、直接見ることは叶わなくとも、復活の主を信じる者となるようにとの招きが、ここで語られるのです。
また、主イエスを信じる者が奇跡の業を行うことができるようになるとも教えられています。これは、「わたしの名によって」と言われている通り、信じた者たち自身の力ではなく、主の御業が信仰者一人ひとりを通して現されるという信仰告白として受け取ることができます。
書き加えられた結びでは、信じない者ではなく、信じる者となるように読む者を招きます。信じない者が信仰者に変えられる出来事も、主の復活を信じた時に与えられる平安も、信仰者が奇跡を現す器として用いられることも、全ては「主の御業のゆえ」に果たされます。この素晴らしさを知る者たちの呼びかけを、ここに見るのです。
「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と語られていますが、私たちの大切な家族や友人には、洗礼を受けていない方もおられます。そして、洗礼に導くことの難しさを身にしみて感じます。
しかし、私たちへと常に恵みを備えてくださる主は、復活の後、「ガリラヤに行く」と言われました。宣教の出発点に戻られた主は、洗礼を受けておられない方々の元へ出かけられたのだと信じます。それゆえ、私たちをも引き受けてくださった方ですから、洗礼の有無にかかわらず、最後には一人ひとりをその御手に引き受けてくださるに違いないと、大いに期待できるのです。
私たちは、復活によってその力を示された主にこそ、自らと大切な一人ひとりを委ねたい。語られた御言葉を聴きつつ歩む者とされたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン