十字架
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
ルーテル教会では、3年を1サイクル(マタイ年、マルコ年、ルカ年)として、主日礼拝ごとに読まれる聖書の箇所が決められています。そのため、主日礼拝で取り上げられることのない御言葉も多くあります。主日の日課と定められていても、説教で触れるのは、その中でもほんの僅かな内容でしょう。
キリスト教会の信仰の出発点は、主イエスの十字架の死と、この後に示された復活の出来事です。短い聖句の意味を深めることで与えられる発見は、私たちの支えとなります。しかし、語られた御言葉を断片的に受け取るだけならば、主イエスの歩みの全体像は未知のままです。その意味でも、本日の受難主日ではマルコ福音書14-15章において語られている、十字架に至る道を進まれた主イエスの歩みを辿りたいのです。
~ マルコ福音書14章1節-15章47節の朗読 ~
人の欲は尽きません。手に入れた物には飽きがきますから、望む物の多くは、手の届かない場所にあると言えましょう。より希少価値の高い物を求め、高みを目指す時、そこには競争と比較が生じます。人生に満足し、自らに価値を見出すことで、「私はここに生きて居て良いのだ」という安心を得ようとしているのでしょうか。
同様に、人々は「救い」をも高い場所に据えました。努力や行いが評価される熱心な者のみが神に愛されるならば、信仰生活は非常に厳しいものです。やはり信仰の面でも、人は自らの手で安心を勝ち取ろうとしているようです。
生きる中で負った痛みや苦しさとは、何故こんなにも鮮明に残り続け、幸せや楽しさをかき消すほどの力を奮うのでしょうか。立ち上がる気力さえ残らない時、手の届かない場所に救いがあるのならば、どうやってそこまで辿り着けば良いのでしょうか。
痛みが消えないからこそ癒やしが、負い目がぬぐい去れないから赦しが、不安に押しつぶされそうになるから安心が、私たちには必要です。
「この杯をわたしから取りのけてください。」(14:36)と祈られつつも、主イエスが十字架に至るまでの一つひとつの苦難を、無言のまま御自身の分の杯として引き受けられたのは何故か。私たちが真に必要とする神の恵みを、本来在るべき場所に戻し、私たちが受け取ることができるようにするためであったことを覚えたいのです。
民の叫びによって十字架を背負わされ、侮辱の中で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15:38)と叫び、息を引き取られた主イエスの姿は、世の理解では敗北者でありましょう。
しかし、私たちは、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉から始まる詩編22編が、最終的に神への賛美で締め括られていることを知っています。その通り、痛みのドン底、暗闇の最も深い場所から、復活という光を現されたのだと聖書は告げています。すなわち、主の御業を阻める存在はないということです。
私たちの命は、ドン底に置かれた主イエスの十字架の上に保たれています。それゆえ、苦しい状況にある時ほど、より主が共におられることを実感するのでしょう。主イエスの十字架の出来事とは、私たちが望まれ、喜ばれて今ここに生かされていることのしるしです。自らの力によって勝ち取る一時的な安心を目指すのではなく、いかなる時も主と共にあるという平安に立ち、常に喜ばれる者として歩んでいきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン