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裁くためではなく

ヨハネによる福音書2章13-21節

3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週の礼拝では、キリスト教会にて「宮清め」として知られる聖書の内容を聴きました。主イエス一行が、エルサレム神殿に巡礼した際、そこでは巡礼者のために儀式に用いる動物が売られ、貨幣の両替人が商売をしていたようです。

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」(ヨハネ2:15,16)。

主イエスの怒りとは、何に対して向けられていたのでしょうか。「人は神の御前に死んで償うべき罪を負う」と言いつつも、身代わりの動物を捧げる・献金を納めることで、赦しを買い取れるかのように考える人の思いに対してか。巡礼出来る・代理で行ってもらえる人、動物を買える・献金ができる者のみが赦しの資格を得るシステムに対してか。罪を毎年洗い流せる物として扱い、赦しに1年という有効期限をつけた教えに対してでしょうか。

その真意は記されておりませんが、動物を追い出し、両替人の机を倒されることにより、彼らの儀式を阻まれた主イエスの姿が告げられています。

「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』」(2:18,19)。

目に見える神殿は後に破壊されることとなり(紀元70年頃のユダヤ戦争)、人々は儀式による赦しを得る術を失い、途方に暮れることとなります。

しかし、私たちは、身代わりの動物も必要とせず、繰り返す必要も無い、ただ一度きりの「主イエスの十字架による赦し」が告げられています。主イエスの御言葉を聴く時に建つ神殿が、確かにそこにあるのです。

主は、人の隠したい醜さを全て知っておられます。そうでありながらも、私たちを見放すことなく、引き受けてくださるのです。十字架の道を進まれるほどの忍耐と覚悟が、手渡される赦しに示されます。重荷を共に担われることで軽くされた私たちは、新たな歩みを主の御言葉に聴くことから始めたいのです。

本日は、主イエスが神の御許から世に遣わされた理由について、ヨハネ福音書の伝える内容を聴いてまいります。

3章の冒頭より、ファリサイ派に属し、ユダヤ人の議員でもあった「ニコデモ」という人物が登場します。ファリサイ派は、「永遠の命を得ること」を目標とし、聖書の掟を徹底的に守り、罪を犯さず正しい生活を実践していた人々です。

しかし、ニコデモは御業を目撃して以来、主イエスを尊敬し、教えを請う者となります。質問を繰り返しても主イエスの言葉の意味は理解していないようですが、最終的に十字架から降ろされた主イエスの遺体を埋葬する際に、ニコデモも共に居たと記されています(ヨハネ19章)。

このニコデモとの初めての会話の終盤に、本日私たちへと語られた御言葉が記されているのです。

「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(3:13-15)。

「旧約聖書」の民数記には、民が指導者モーセに不平を言い、神に背いたことで蛇に襲われ、多くの死者が出た出来事が記されています。この時モーセは、神の御言葉に従い、旗竿の先に青銅の蛇を掲げました。すると、「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」のだというのです(民数記21:9)。

「新約聖書」の時代の人々は皆、この物語を知っていました。そのため、主イエスは「青銅の蛇」と同様に、皆が「永遠の命を得るため」には、「人の子も上げられねばならない」と言われました。はっきり語られてはいませんが、明らかにご自身の十字架を言っているのだと、福音書の結末を知る私たちは気づかされます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16,17)。

マルティン・ルターは、3章16節が的確に主の御旨を表現しているとして、「小福音書」と呼びました。長い歴史の中で、福音(良い知らせ)として多くの人々を励ましてきたであろう聖句です。

主イエスが、世に遣わされた理由。それは、主を信じる一人ひとりが「永遠の命を得るため」、そして、人々が生きる「世が救われるため」なのだと語られています。永遠の命を示すためには十字架の死が必要不可欠だとしても、「世を愛され」るが故に、神は主イエスを私たちの元へ遣わしてくださったのだというのです。

ファリサイ派は正しく在るために聖書の掟に従い、自らを律して厳しい生活を送りました。サドカイ派は、罪が清められた姿を保とうと、身代わりの動物を捧げる儀式を毎年繰り返しました。人々は、教師や祭司が教えるままに行い、掟に縛られた生活を送らなければなりませんでした。

ルターの時代にも、相変わらず「立派な信仰者」としての生活が求められました。ルター自身、ノイローゼになるほど罪と向き合い、真剣に生きようとも、救いは見出せなかったようです。「神の義(正しさ)の前では、罪人は裁かれるほかない」と、心底怯えていたのです。

社会にも、「こう在らねばならない」という縛りが多く存在します。競争社会の目指す先は、そのような人の作り上げた理想でありましょう。

しかし、主イエスは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われます。それは、個々人の努力を要する人々の目指す先とは、真逆の宣言です。「救い」や「永遠の命」とは、神の願いによって一人ひとりへと備えられる賜物なのであり、人の行為や正しさによって勝ち取る物ではありません。むしろ、正しく在れない、弱さを持つこの身を御存知であるからこそ、神は御子イエスを世に遣わし、共におられることを選んでくださいました。この主の思いを、今、私たちは大切に受け取りたいのです。

今もなお、依然として教会内で「信仰者ならば清く正しく生きなさい」と語られることがあります。主イエスの御言葉を差し置いて、依然として作り上げた理想を目指し、世も、教会も進んでいるようです。私たちは無意識に縛りの中に身を置き、他者や自らを裁こうとしているのでしょう。

しかし、主イエスは人の作り上げた「こう在らねばならない」を打ち崩すために、人々の間を歩み、神の御旨を一つひとつ告げていかれました。弱さに鞭を打つ社会と対峙し、神と共に在る安心を伝えて行かれたのです。

時が流れようとも、人は主の御心から遠ざかる弱さを持ちます。全てを承知の上で、私たちへと言われるのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。

ここに、私たちの想いを超えた主の願いを見るのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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