甘いささやき
マルコによる福音書1章12,13節
1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週は、山に登られた主イエスの御姿が、真っ白く輝いた出来事を記念する「変容主日」でした。主イエスは光輝く御姿のまま、遙か昔に天へと召されたはずの預言者モーセとエリヤの3人で語り合っていたのだというのです。
「旧約聖書」では、神の顔を見た者は死ぬと言い伝えられていました。人々は神に近づく時には顔を隠しましたし、父なる神もまた栄光を人々に現す際には、通り過ぎるまで御自身の顔を隠され、後ろ姿のみを見せられたと言われています(出エジ33章)。実際に神の顔を見た預言者モーセは、その栄光に影響され、彼自身の顔も輝きを放つようになったと記されています(34章)。
すなわち、御姿が真っ白く輝くとは、主イエスが父なる神と等しい存在として、世に遣わされたことを示しているのです。偉大な預言者たちと共に、3人で語り合う様子とは、いずれ主イエスが天に迎えられた後に起こる出来事の先取りのようです。
変容の出来事により、主イエスの本来在るべき「天における御姿」が垣間見せられました。人となられ、十字架への道を進まれる主イエスこそ私たちの神であり、この方が語られた御言葉を、日々私たちは語りかけられています。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)と雲の間からの声が告げるように、この身を委ねることができる方が共におられる幸いを噛み締めつつ、主の御言葉に聴きたいのです。
さて、私たちは「四旬節(レント)」を迎えました。四旬節とは、「灰の水曜日(2018年は2/14)」から「復活祭(イースター)」までの、日曜日を除いた40日間を指します。キリスト教会では、主イエスが十字架にかかられるまでに受けられた苦しみを覚える期間として定められています。
最初に申し上げますが、ルーテル教会の会堂前方に置かれる十字架には、主イエスはかけられていません。それは、主イエスが十字架の死より三日目に復活されたという信仰に立っているからです。すなわち、神の御心は、主イエスを通して果たされ、完成したことをも信じるということです。
主イエスの苦難の出来事には、私たちの申し訳なさが入り込む余地はありません。だからこそ、私たちは死刑の道具ではなく、救いの象徴とされた十字架を見上げつつ、救いの道を通された主の受難の出来事一つひとつに心を向けたいのです。
「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(マルコ1:12,13)。
本日の御言葉は、「荒れ野の誘惑」として、教会内でよく読まれる箇所です。洗礼者ヨハネより洗礼を受けられた直後、宣教の旅を始められる前に、主イエスは荒れ野に40日間留まることとなりました。
「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」とあるように、聖霊の働きかけによって、主イエスは荒れ野に向かわれました。この聖霊の働きかけについて、他の福音書は、マルコ福音書とは異なる言葉で表しています。
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ4:1)。
「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(ルカ4:1,2)。
聖霊なる神は、御心の故に人を導き、送り出すだけではなく、行きたくない場所へも引き回し、連れて行かれる方であることを知らされます。
誰もが、居心地の良い場所や幸福な生活を望みます。同時に、順風満帆なまま終える生涯がないことも承知しています。思い通りにならない世にあって、私たちは主の御言葉と出会いました。そして、今、聖霊なる神が共におられるのだと告げられています。目には見えずとも、聖霊は私たちを外側から包み、いかなる時も離れることはないという約束を、聖書は伝えているのです。
ここに、御言葉を聴く者だけに与えられる安らぎがあります。すなわち、私たちの歩みで起こる出来事の全ては、私たち個々人が背負うのではなく、共におられる主によっても担われるものでもあるのだということです。この約束は必ず果たされることを信じる時、人は初めて好き嫌いに左右されず、遣わされた場所に身を置く意味を見出す者に変えられるのです。
主イエスは、荒れ野に遣わされました。40日間の苦難とは、どれほど厳しかったのか想像も及びません。しかし、父への信頼の故に、食べ物が少なく野獣がうろつく危険な荒れ野に、主イエスは留まられたのだと受け取りたいのです。
さて、四旬節は日曜日を除く40日と定められており、本日の御言葉にある「荒れ野の誘惑」の出来事も40日間だったと記されています。
聖書には、よく「40」という数字が登場致します。エジプト人の奴隷として苦役を強いられていたイスラエルの民は、預言者モーセに率いられ、出エジプトを果たします。しかし、食料不足や強大な敵を前に、「エジプトに残った方がマシだった」と繰り返し不満を語り、神の怒りの故に荒れ野を40年間放浪することとなりました。40年とは世代交代を意味致します。「神に背いた者たちが死に、次の世代が約束の地を受け継いだ」と歴史が綴られています。
また、イスラエルの民がシナイ山の麓に到着した際、モーセは十戒の石板を受け取るために、民を残して山に登りました。この時、40日40夜をモーセが山で過ごす間に、民は神ではなく金の子牛の像を拝んだのです。これにより、最初の石板は砕かれることとなりました。40日とは、人の心や状況が変化する区切りの期間として考えられていたのでしょう。
主イエスは40日間を荒れ野で過ごされましたが、この時、具体的にどのようなことがあったのでしょうか。マタイ福音書、ルカ福音書によれば、誘惑は三つだったようです。
一つ目は、空腹の主イエスへと、御業を用いて石をパンに変えるようにそそのかす。二つ目は、神殿の屋根から飛び降りた時、天使が主イエスの身体を支えるのかを試させる。三つ目は、世界の全てを見せ、悪魔を拝むなら、一切の権能と繁栄を与えると語る。
以上の内容から、サタンは人を痛めつけて耐え難い苦痛を与える存在ではなく、少しでも豊かになりたいと願う気持ちを刺激し、人を神より引き離す者として登場していることが分かります。神の造られた世界の権能と繁栄を手にしているということは、サタンもまた、神に仕える御使いだったのでしょうか。
いずれにしても、主イエスは自らを高く上げ、神に成り代わることは望まれませんでした。むしろ、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とあるように、創造主である御自身が、被造物である野獣に傷つけられることなく、共に40日間を過ごされたのだというのです。互いに傷つけ合うことのない天の国の様子が現されているようです。
人の想いは揺らぎやすく、少しでも尊重され、豊かに生きたいと望みます。主は常に私たちと共に在り、決して離れる事なく、私たちを包んでおられるのだと言われています。私たちは、より多くの物を手にすることではなく、手の内にある全ての物がこぼれ落ちた後も、この身を引き受けてくださる方がおられることに、豊かさを見るのです。
私たちは、先の見えない困難に耐え得る精神は持ちませんが、主イエスが忍耐によって示してくださった「神と共に在る豊かさ」を見据えたい。困難の只中においても、その豊かさは朽ちることなく、私たちと共に在り続けるのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン