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姿が変わる

マルコによる福音書9章2-9節

◆イエスの姿が変わる 9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、人々の噂が地方一帯に広まる前に、主イエス一行が、シモンとアンデレ兄弟の家に向かわれた際の出来事を聴きました。ちょうど、シモンのしゅうとめが熱に苦しんでいるところでした。

彼女の癒やしを願う人々の執り成しの故に、主イエスは彼女に近づき、手を取って起こされました。すると、熱は去ったのだというのです。シモンのしゅうとめは、癒やされたことにより、一同を「もてなす者」へと変えられしました。

しゅうとめは何らかの事情により、娘の夫となったシモンの家に同居することになったのでしょう。しかし、彼女が一家の主人のするべき「もてなし」を担っていることから、シモン一家もまた、家長となる男手が居なかったことが分かります。舟を用いずに漁を行わねばならなかったのは、貧しさのためだったのでしょう。シモンとアンデレが、主イエスの弟子として出て行ったことで、生活は更に厳しくなったに違いありません。

主イエスには、果たさなければならない御業がありました。十字架の死と復活です。背く人々に赦しを宣言し、再び神と結びつけること、そして、死の先に命があることを指し示すことこそ、主イエスが世に遣わされた理由でした。そのため、「弟子となる者は後ろを振り返らずに、招きにすぐ従いなさい」と言われるのです。

しかし、主イエスは弟子たちの家族を訪問されました。それは、世に生きる一人ひとりをかけがえのない宝とされる神の御心があるからです。私たちの主は、苦しむ者に近づき、触れ、癒やしを与えられる方です。この方が今、私たちと共におられるのです。

その語る言葉には力があり、片時も離れずに私たちの歩みに伴われるとは、主のみが果たし得る神業です。だからこそ、私たちは主の御前に立って御言葉を語られ、信仰の友と祈り合いつつ、自らに与えられた道を安心して歩みたいのです。

「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(マルコ9:2,3)。

本日は「変容主日」です。上記の御言葉の通り、弟子たちを連れて山に登られた主イエスの御姿が、真っ白に輝いたという出来事を記念する日です。

何から「六日の後」なのか。この直前の8章には、「受難予告」が記されています。この時に初めて、御自身が十字架にかけられて殺され、三日の後に復活すると、主イエスは弟子たちへと告げられました。この宣言の「六日の後」に、変容の出来事は起こったのだと語られています。

受難予告の終わりに、主イエスは次のように言われました。

「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(8:38)。

遣わされる天使たちも、父なる神の栄光を受けて輝いて来ると言われています。「旧約聖書」にも、同様の内容が記されていることを思い起こします。

「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった」(出エジ34:29)。

預言者モーセが、十戒の記される二枚の石板を付与される際、神と面と向かって語り合ったことにより、その栄光を受け、モーセの顔もまた光を放ったのだというのです。古い時代より、神の顔を見た者は死ぬと言い伝えられてきました。唯一人モーセだけが、神と顔を合わせて会話をした人物として聖書に登場します。

もう一箇所、「栄光をお示しください」と願うモーセに対して、主が御自身を示された場面を紹介致します。

「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」(出エジ33:21-23)。

神は、人が死なぬように顔を隠され、後ろ姿のみを見せられるという、「神の本質」について語られています。

以上により、神は栄光の輝きを放っておられること、そして、神の顔を見たモーセや御許から遣わされた天使たちもまた、その栄光を受けて光を放つのだと聖書には記されていることが分かります。

さて、主イエスは初めて受難予告を弟子たちへと語られましたが、復活は、人には果たせません。神お独りのみ為し得る事柄を告げるとは、御自身が神と深く結ばれる者であることの宣言でもあります。それゆえ、この六日の後に、主イエスは御自身の真の姿をも、弟子たちに示されたのでしょう。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝」いたとは、栄光を放つ神の御姿そのものです。

これと併せて、マルコ福音書6章の内容も確認致します。

「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」(マルコ6:48)。

湖の上を歩くという時点で想像を超えた出来事ですが、主イエスは強風に恐れる弟子たちに近づき、しかし、「そばを通り過ぎようとされた」のだというのです。この時の主イエスの行動が、顔を隠し、後ろ姿のみを見せられる神の御姿と重ねられていることに気づかされます。

「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』」(9:3-5)。

偉大な預言者として知られるモーセですが、墓の場所は聖書に明記されていません(申34:6)。それゆえ、後の時代には、モーセは神の御許に昇ったのだと考えられるようになりました。また、預言者エリヤは、死なずに神の御許に上げられたと記されています(列王下2章)。このように天に上げられた両者と語り合うとは、主イエスが復活して天に上げられた後の様子を先取りしているかのようです。

ペトロは、この素晴らしい光景をその場に保存しようと、幕屋(テント)を3つ建て、恐れつつ提案しました。けれども、突然雲に覆われ、そこから「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)という御声が響いたかと思うと、いつものご様子で、主イエスお独りだけがそこにおられたのだというのです。

私たちは父と子と聖霊を、三位一体のお独りの神として信じています。決して、父に影響されてではなく、主イエスの内より栄光が輝き出でた、すなわち、父と等しい存在としての真の御姿が現された出来事として、この出来事を受け取りたいのです。

顔を見ることも叶わない父は、人となり近づいて来てくださいました。そして、十字架の死と復活の御業が果たされた今、新たに聖霊としての御姿で、私たちを常に包み込んでおられるのだと約束されています。

この方の御言葉を、私たちは受け取ります。日々、語りかけられているのです。御言葉に、私たちを生かし、支え、癒やす力と権威があることを信じつつ、私たちを愛するが故に共におられる主に、この身を委ねたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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