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手を取る

マルコによる福音書1章29-39節

◆多くの病人をいやす 1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 1:33 町中の人が、戸口に集まった。 1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 ◆巡回して宣教する 1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、 1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエス一行がカファルナウムの会堂に立ち寄った際に起きた出来事について、御言葉より聴きました。会堂で皆に話をされる主イエスの前に、「汚れた霊にとりつかれた男」が現れ、次のように叫んだのだというのです。

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(マルコ1:24)。

この悪霊は、主イエスの正体を知っており、それゆえ「関わってくれるな」と抗議しているようです。

聖書では、神より離れる者の様子を「罪」と呼びます。常に神の御心を聴きつつ歩まれた主イエスは、「罪なき者」と言えましょう。そして、世に生きる以上、信仰者であろうとも、人間は神以外に心を向ける瞬間があります。すなわち、神に対して幾度も罪を重ねているということになります。

聖書に登場する「み使い(天使)」もまた、人間と同様に誘惑のある世界に遣わされています。堕天使や悪霊などは、み使いとして派遣されつつも、神より離れてしまった者がそのように呼ばれているようです。だからこそ、悪霊は神を知り、神より遣わされた主イエスを知っていた。そして、無関係を主張しようとも、神の支配からは逃れられずに、主イエスの御言葉によって男の内から追い出されることとなったのでしょう。

「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(1:25-28)。

奇しくも、悪霊を通して「主イエスは神の聖者だ」と、その出処が証しされました。この後、「権威ある新しい教え」に驚いた人々によって噂が広められていくこととなります。

私たちが礼拝の中で聴くのは、主イエスの御言葉です。主イエスの出処、すなわち、神の御許から来られた方だからこそ、その語られる言葉は権威を帯びるのだと承知しつつ、本日も御言葉に聴いてまいります。

さて、「イエスという人物が他の誰も真似できない御業を行っているようだ」という噂は、「ガリラヤ地方の隅々にまで広ま」りました。これより多くの人々が主イエスの御業を求めて集うことを見越してか、一行は一旦シモンとアンデレ兄弟の家に向かいました。その家に、彼のしゅうとめが同居していとは、シモンが結婚していたことを意味しており、もしかすれば子どももいたのかもしれません。

「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(1:29-31)。

ここでは非常に簡潔に、シモンのしゅうとめの癒しの出来事が語られています。しかし、いくつかの点に気づかされます。

一つ目は、シモンとアンデレ兄弟の家庭の事情についてです。

当時は、家の主人である父親が客人をもてなすという習慣がありました。家族の結束が強く、親類が同じ家で暮らすのが一般的だった時代にあって、父親や長男ではなく、シモンのしゅうとめがもてなしをする立場にある。これは、一家の主人を彼女が担わなければならない事情があったためでしょう。すなわち、シモンの両親がすでに他界しており、シモンの家系に担い手が居ない場合です。ヨハネとヤコブ兄弟の家とは異なり、シモンとアンデレ兄弟が舟を用いずに漁をしていました。このことから、彼らの生活が貧しかったことを窺い知ることができます。また彼ら兄弟が主イエスに従った後、しゅうとめが一家の主人となったならば、なお生活は厳しくなっていたことでしょう。

聖書には、主イエスの弟子は12人居たと記されていますが、マルコ福音書には、5人目までの召命の出来事が記されています。漁師のシモンとアンデレ、ヨハネとヤコブ、徴税人レビ(マタイ)です。いずれもすぐに従い、弟子とされています。一方、他の福音書には、弟子になりたくても財産を手放せずに挫折し、諦めた青年の話が記されています(マタイ19:22)。また、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)とあります。主イエスの弟子となるためには後ろを振り返らず、すぐに呼びかけに応じなければならないと言われているようです。

世に遣わされた時から、主イエスは御自身の進む先に用意された十字架を見据えておられたのでしょう。宣教を始められた以上、弟子となる者にも、しがらみに捕らわれることなく、よそ見をせずに前進するように言われるのは当然です。

しかし、そうでありながらも、この時、主イエスはシモンとアンデレ兄弟の家に向かわれていました。主人であるしゅうとめが熱を出して寝込むことで、男手のない貧しい家族は困難と不安の中に置かれたに違いありません。すべてを見通される主イエスは、ただ世間の者との関係を断ち切って前進されるのではなく、弟子たちが残した家族の事をも気にかけ、人々の間を歩まれていたのだと気づかされます。そのような想いがあったからこそ、人々が押し寄せる前に、最も近くにいる弟子の家族より癒しの御業を始められたのだと受け取りたいのです。

二つ目に、主イエスの癒しについてです。

先週の御言葉において、主イエスは御言葉の権威によって悪霊を男の内から追い出されたとあります。また、他の場面でも、御言葉によって命じるだけで、言われた通りになる出来事が記されています。つまり、シモンのしゅうとめに対しても、神の御許から来られた方としての権威によって、御言葉のみで御業は果たされたことでしょう。

しかし、主イエスは、彼女の「そばに行き、手を取って起こされると、熱は去」ったとあります。病気や怪我の処置を「手当て」と呼ぶように、医師は患者に触れて治療を行います。その時、触れられるだけで安心が与えられることがあります。主イエスが近づき、手を取られたことにより、熱という身体的な苦しさだけではなく、シモンのしゅうとめの疲弊した心も癒されたことでしょう。主イエスは御自身から近づき、手を取り、癒しを与えられました。この出来事を通して、彼女は「癒しを必要とする者」から、一行を「もてなす者」へと変えられたのです。

三つ目に、「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した」とあるように、他の人々の願いのゆえに癒しの御業が果たされたということです。彼女の癒しに続く内容にも、「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」(マルコ1:32)と、記されています。

生を受け、多くの経験や体験を積もうとも、この世を去る時が近づくたび、人の手の内よりすべての物がこぼれ落ちていきます。信仰者には、最後に祈りが残ると言われますが、祈ることさえできなくなります。では、何が残るのか。自ら何もなせなくなった時、最後に残るのは他者から「祈られること」「覚えられること」です。主イエスは、このとりなしの祈りを聴き届けてくださる方なのです。

また、すべての人の罪の故に十字架に打ち付けられた時の傷痕は、復活の主の御手にも残っていると聖書は伝えています(ヨハネ福音書20章)。消えない傷痕とは、私たちを赦し続けてくださることの徴です。私たちを知る者が皆、主の御許に召される時が来ようとも、私たちは主によって覚えられ続けるのです。

シモンのしゅうとめを御存じであり、周囲の人々の願いと祈りとを聴き、御自身から近づき、彼女の手を取って癒しを与えられた。簡潔に記される中に、聖書に名も記されないたった一人の女性を手当てされる主イエスの御心が映し出されます。

巻き戻せない時間の流れを、消し難い傷を負いつつ私たちは歩みます。しかし、多くの人が生きる広い世界の中で、主はあなたを知っておられます。私たちは信仰の友にとりなしの祈りを祈られ、主に覚えられつつ生かされてまいります。この揺るぎない約束に信頼しつつ、私たちもまた、他者をとりなし、覚え続ける者とされたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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