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最初の証し

マルコによる福音書1章21-28節

◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす 1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエスが御自身の弟子となるようにと、4人の漁師たちを招かれた出来事を御言葉より聞きました。

聖書は、ユダヤ人の祖先であるイスラエルの民が、紀元前7c以降に外国の侵略を受け、故郷と神殿を失い、各地に散らされていった様子を記しています。紀元前1cには、新たに地中海沿岸はローマの属州として監督下に置かれることとなりました。それゆえ、先祖の歩みを語り継がれてきたユダヤ人たちは、神の与えられた土地を取り戻し、独立した国家として立つこと夢見ていたのです。

そのような中で、「時が来た」と呼びかけるイエスという人物が現われたのです。4人の漁師たちがすぐに呼びかけに応えたのは、そのような想いがあったからだと受け取りたいのです。

彼らの願いとは異なり、主イエスの進まれる道の先には十字架の死が待ち受けていました。しかし、国を奪還できないばかりか、道半ばで指導者を失い、路頭に迷う弟子たちへと、主イエスは「復活」により新たな道を示されたのです。

それは、憎しみによる武力行使ではなく、死の先に命があることを知らしめられて生きる道。死の先にある「神と共に生きる命」を先取りし、地上に生きながら、神の国に住まう安心感に与る「生」です。

弟子たちは、当初の期待とは正反対の道を指し示されましたが、与えられた生涯を全うしたと、現在に至るまで伝えられています。一時の満足感ではなく、主によって揺るぎない安らぎを与えられたのでしょう。

私たちには、それぞれの内に願いがあり、期待も異なります。けれども、苦難の只中に置かれようとも、私たちを真に望まれる主が、私たちに対しても生きて働かれると約束されています。この身に御業を現される時を見逃すことのないように、御言葉に聴きたいのです。

さて、本日の御言葉は、漁師4人の召命の出来事に続いて記されています。

「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マルコ1:21,22)。

カファルナウムはガリラヤ湖の北西に位置する町です。会堂が建てられており、安息日にはユダヤ人が集いました。主イエス一行も礼拝するために訪れたようです。

会堂に着いた時、主イエスは礼拝に集った人々に教え始められました。宣教の初めに、主イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と語られたと伝えられています。先週も申しましたが、当時は「神の国に至るためには正しさと清さが不可欠だ」と教えられていたため、人々は律法を守る努力をしていました。人の能力にかかわらず、神の国の方から近づいてくるとは願ってもない良い知らせ(福音)だったことでしょう。

会堂での教えの詳細は記されていませんが、律法学者たちの話とは正反対の内容が、主イエスを通して語られたのだと、人々の驚きから窺い知ることができます。

「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ』」(1:23,24)。

現代のように医療が発達していない時代には、理解を超えた病を悪霊や罰として受け取っていました。ここでは悪霊に取りつかれた男が登場します。どのような病であったのかは分かりませんが、彼が主イエスに投げかけた言葉には考えさせられるのです。

主イエスは、洗礼者ヨハネより洗礼を受け、彼が捕らえられたことから宣教を開始し、4人の漁師を弟子とされました。歩み出したばかりのこの時、主イエスのことを知る者は少なかったことでしょう。

しかし、悪霊に取りつかれた男は、無関係だと叫びつつも、主イエスがナザレから来たことを知っている。そして、「正体は分かっている。神の聖者だ」と語るのです。その場に居た弟子たちや、ユダヤ人たちの誰も予想していなかった「主イエスについての証し」が、この男を通して伝えられることとなったのです。

「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(1:25-28)。

それまで、悪霊に取りつかれたと考えられた者たちは、暴れる場合には縛られ、鎖に繋げられ、人里離れた場所に隔離されました。

しかし、もはや解決の余地がないとされていた者を、主イエスは御言葉によって悪霊より解放されたのだというのです。他の誰も行うことのできない御業を目撃した人々により、主イエスの噂は瞬く間に「ガリラヤ地方の隅々にまで」広められていくこととなりました。

マタイ福音書には、主イエスが40日間、荒れ野で誘惑を受けた出来事について、次のように記しています。

「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」/と書いてある』」(マタイ4:8-10)。

ここでは、悪魔もまた神に属する者として、繁栄した国々を任せられている存在であると示されています。マタイ福音書の著者は、人を神から引き離そうとする存在を、他にも「誘惑する者」、「サタン」などと言い換えています。聖霊とは対極に位置する存在として、聖書に登場するのです。

いずれにしても、会堂で主イエスの正体を叫んだ悪霊もまた、神と無関係に生きることを望もうとも、神の支配からは逃れられない者に違いありません。主イエスの正体を知っていることは、その言葉の出処と権威を知っているということです。そして、そのゆえに、主の御言葉には従うほかない存在なのでしょう。神を知っているからこそ、この神の御許から主イエスが来られたことをも悪霊が承知していたのだと受け取りたいのです。

クリスマスの出来事を通して、私たちは主イエスのお生まれを喜び祝いました。この方の正体について、人が知り得ることは書き残された僅かな旅の御姿のみでしょう。

しかし、本日の御言葉を通して、主イエスが神の御許から来られた方であることを、私たちは告げられるのです。奇しくも、人を苦しめる「汚れた霊」を通して、「主イエスの出処」が証しされました。背こうとする力さえも用いられ、神は御自身を人々の前に示されることを覚えたいのです。

神が創造された世ならば、何故このような苦難があるのかと幾度も考えたことがあります。けれども、たとえ強大な力をふるう死でさえも、主の御前では無力だと聖書は伝えています。

世を歩み、耐え難い苦痛を引き受けられた方だからこそ、遠くから見るのではなく、苦しむ者の痛みを共に担われているのだと信じます。愛する者を脅かす力に対し、主が怒りをもって立ち向かわれる方であることを覚えつつ、神の御許から来られたと伝えられる主に、この身を委ねたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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