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洗礼の出来事

マルコによる福音書1章9-11節

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日は、主イエスが洗礼を受けられた際の出来事を、御言葉より聴いてまいります。現在の教会でも「洗礼」は大切な儀式として継承されています。これが私たちにとってどのような意味があるのかを改めて考えたいのです。

クリスマスを待ち望む期間である待降節(アドヴェント)の12月10日に、主イエスよりも先に荒れ野で活動した「洗礼者ヨハネ」という人物について御言葉より聴きました。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:3,4)

聖書に、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と記されている通り、洗礼者ヨハネは、日本の「かぶき者」のような常識を逸脱した生活をしていました。そのような人物が、人々へと「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていたのです(1:6)。

当時は、清く正しい生き方を貫くことが、神の赦しを得る条件だと言われていました。いつ赦され、救われるのか分からないまま人々は努力し、神の怒りを向けられないような生き方を心がけたのです。

そのような中で、無条件で罪の赦しに至る洗礼を宣べ伝えるのですから、噂が広まらないわけがありません。ついには「ユダヤの全地方とエルサレムの住民」(1:5)がこぞって集まり、洗礼者ヨハネは時の人となったのです。前代未聞の「洗礼」という儀式をもたらした人物を、人々は「救い主ではないか」と噂しました。

しかし、洗礼者ヨハネは人々へと語ります。

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1:7,8)。

以前にも申しましたが、「洗礼」とは、水に身を浸し、水から身を起こす儀式です。古い自分が死に、新たに生まれ変わって神に従う者とされることの象徴です。これ以前には無かった儀式を、洗礼者ヨハネはどのように考え出したのでしょうか。

「旧約聖書」には、ユダヤ人の先祖であるイスラエル民族の成り立ちが記されています。すべての出来事、すべての時代の人々へと神が関与しておられるため、「神は生きて働かれる方だ」と表現されています。

中でも、有名なのは『ノアの箱舟』や『出エジプト(Exodus)』でしょうか。争いを繰り返す人々を見た神がノアへと箱舟を作るように命じられ、後に洪水でノアと家族、動物のつがいのみが生き残ることとなった。これがノアの箱舟の物語です。

出エジプトは、預言者として召し出されたモーセが、エジプト人の奴隷となったイスラエル民族を救い出す物語です。神が二つに割られた海を渡ることにより、エジプト軍の追っ手より逃れることができたと伝えられています。

このほかにも、イスラエル民族が分岐点に立たされる時、水をくぐることによって、新たに神に従う者に変えられる出来事が記されています。このように、「水をくぐった民が、神の御手に取り戻される」ということからインスピレーションを得て考え出されたのが、「洗礼」だったのではないかと想像します。少なくとも、前代未聞のこの洗礼に救いを見出し、人々が洗礼者ヨハネを訪れたことは間違い在りません。

教会において洗礼は、教会の一員となる儀式として現在も大切にされています。洗礼を受けずとも、聖書の御言葉を大切にすれば信仰者だと言われる方もおられます。私たちが何故、洗礼という儀式を継承し、これからも続けていくのか。それは、本日の御言葉で語られるように、主イエス御自身もまた、この洗礼を受けられたからです。

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:9-11)。

古くから、「洗礼は一度きりの罪の清めだ」と語られてきました。生きる上で人は罪を重ねますが、洗礼によって全ての罪が洗い清められるため、できるだけ晩年に洗礼を受け、清い状態で死ぬことが望まれたのです。

一方、病気などの流行により、洗礼を受ける年齢に達しないまま死ぬ者もおりました。洗礼を受けることで神に救われると考えられていた時代ですから、神の救いから漏れるなどあってはなりません。そこで、小児洗礼(赤ちゃん洗礼)が行われるようになっていったのです。(赤ちゃんは、自ら信仰告白ができないため、適齢期に堅信式を行う習慣が作られることとなりました。)

このように、洗礼はたった一度きりの出来事であり、受洗者を罪から解き放ち、神に結び合わせる儀式として考えられてきました。

では、洗礼が罪の赦しであるならば何故、罪なき方である主イエスは、御自身に必要の無いはずの洗礼を、人々と共にお受けになられたのでしょうか。

先の御言葉には、主イエスが「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来」たとあります(1:10)。活動を始める前で人々に知られていなかったため、人混みの中でも囲まれることなく洗礼を受けられたのでしょう。主イエスを知っておられた神は、このとき天を裂き、霊を降し、御言葉を語られたのだというのです。これが、十字架へと続く3年の宣教の旅の出発点、復活に至る道を歩み出される際に起こされた神の御業なのです。ルカ福音書では、裂けるではなく「天が開け」(ルカ3:21)と表現されています。

この時に開かれた天は、この後、閉じられたとはどこにも記されていません。すなわち、今に至るまで天は主イエスに連なる私たちの上で開かれている。神と人とを隔てる壁が取り去られた世界を、私たちは生かされているのです。

罪なき主イエスが洗礼を受けられた理由とは、この御業を示すため、そして、滞った人生を生きる者が新たに生き始めることができるように、道を備えられた出来事として受け取りたいのです。

洗礼とは、罪を洗い流すためのシャワーではありません。私たちの罪は、十字架にかかられた主イエスのゆえに赦されたのだと聖書は伝えています。主イエスが受けられたという一点により、私たちもこの道に連なるのです。

時に、「洗礼を受けるほど知識が無い」、「洗礼を受けたいならば皆の前で立派な『証し』をしなければならない」と語られることがあります。けれども、洗礼者ヨハネが集う者全員に授けたように、洗礼が求める者にはいつでも開かれているものであることに気づかされます。また、小児洗礼のように、本人の意志ではなく、家族の願いによっても与えられることもあります。

このように、洗礼とは人の条件によって授けられるものではなく、洗礼が神の招きであることを覚えたいのです。また、もし「証し」をする機会があるならば、そこでは「私がしたこと」ではなく、「神がしてくださったこと」を語べきなのだと改めて気づかされます。

この場にも、選択して洗礼を受けた方、自らの意志ではなく授けられた方がおられます。けれども、そこに違いはなく、一人ひとりが神によって洗礼の機会が与えられた者にほかならないのです。また、隔たりの壁を打ち崩し、天を開かれた方が私たちの主ですから、洗礼の有無にかかわらず、地の果てに至るまで誰一人漏れることなく、その御手で引き受けてくださると大いに期待することができます。

天が裂ける出来事により、神から人への溢れる思いが表されます。だからこそ、主イエスの切り開かれた道に連なる者として歩み出したい。洗礼という確かな繋がりの内に、私たちは生かされていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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