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カナでの最初のしるし

ヨハネによる福音書2章1-11節

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、クリスマス記念礼拝を通して主イエスのお生まれをお祝いしました。

聖書には、主イエスの両親とされたマリアとヨセフの苦悩が記されています。天使のお告げを証明できない以上、本来祝福されるべき妊娠を隠しつつ、二人は村ナザレで生活しなければなりませんでした。また、人口調査のために帰省した村ベツレヘムでは、宿がなく馬小屋で赤ちゃんを出産することにもなりました。

しかし、天使の「おめでとう」に「ありがとう」とは答え難い状況に置かれたマリアとヨセフの前に、羊飼いたちがやってきたのです。羊飼いは、律法を守れないことで軽蔑され、人々の輪から離れた場所で生活していました。そのような社会の中で小さくされた羊飼いたちを、マリアとヨセフのもとへ神は遣わされたのです。天使と洗礼者ヨハネの母以外で初めて、赤ちゃんの誕生を喜ぶ者たちが現れた。それが、いかにマリアとヨセフを力づけたことでしょうか。

主イエスのお生まれは、小さな村のマリアとヨセフの間に告げられ、小さな存在として扱われた羊飼いたちの前に現されました。そして、この出来事を分かち合う中で、彼らの喜びはより大きくされたのです。

主は個々人の内にではなく、私たちの間に来られます。信仰とは、主とあなたと私との関わりの中で紡ぎ合わされていくものです。それゆえ、私たちもまた喜びを分かち合う者として歩みだしたいのです。主イエスのお生まれを祝いつつ、本日も語られる御言葉に聴いてまいります。

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」(ヨハネ2:1-3)。

当時のユダヤの村の結婚式は、花婿の家にて両家の親類や友人に手伝ってもらいつつ行われました。親族や友人に限らず、多くの人々が招かれ、幾日にもわたってお祝いされたそうです。家族の結びつきの強いユダヤ人が、結婚式を大切に考えていたことが分かります。

そのような中で、カナで行われた結婚式では途中でぶどう酒が無くなってしまったのです。主催する花婿一家の失態として、喜ばしい出来事を台無しにしかねません。それでも用意できないのは、花婿の家庭が貧しい場合です。その場に居た母マリアは、主イエスへとぶどう酒が足りないことを伝えました。どうにかしてくれるのではないかと期待していたからでしょうか。

けれども、主イエスは全くの他人に対するように、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と、母マリアの言葉を退けられたのです。

「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」(2:5-7)。

ユダヤ人は、聖書の律法に記されているため、ことある毎に身体を水で洗い清めます。1メトレテスが30~40リットルと言われるので、とても大きな水がめが、ユダヤ人の各家庭に幾つも備えられていたことが分かります。

主イエスが命じられた通り、6つの水がめを縁まで水で満たし、召し使いたちが汲んで宴会の世話役のところに運んだところ、それは上質なぶどう酒に変わっていたのだというのです。このことにより、世話役によって「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(2:10)と、花婿は褒められることとなりました。

「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった…中略…イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:9,11)。

主イエスの言われる「時」とは、十字架の死と復活という御業を果たされる時のことでありましょう。死を打ち砕き、その先に命があることを示すべく、主イエスは旅をされました。それは、個々人の願いを叶えるためではなく、神の御心を果たすためです。それゆえ、足りないぶどう酒の補充について、「わたしには関係ない、時ではない」と言われたのだと受け取りたいのです。

しかし、主イエスはぶどう酒を用意されました。理由は明らかにされていませんが、主イエスの御業によって、結婚式がより豊かにされ、二人は大きな喜びの中で新たに歩み出すことができたことでしょう。ここに、一人ひとりを喜びとされる神の御旨が現されるのです。

本日の御言葉を通して、ヨハネ福音書の著者は「主イエスのしるし(御業)は素晴らしい!」と伝えたかったのでしょうか。それよりも、母とされたマリアが見当違いな場面で主イエスの御業を期待する姿が、そして、水がぶどう酒に変わったことで初めて信じる弟子たちの姿が、印象的に描かれています。しるしを現すことができる者こそ真の預言者だと考えられていたので、当時のユダヤ人は皆、弟子たちと同様の反応をしたことでしょう。

しかし、ヨハネ福音書は、だいたい紀元100年前後に書かれたと言われます。人々がローマ皇帝を崇拝するよう強制された時期です。復活の出来事から50年以上が経ち、当時を知る者が天に召された後の世代は、神を信じると言い表せば死刑にされる時代にあって、どこに救いを見出したのでしょうか。

ヨハネ福音書の20章で、復活されたイエスは、弟子のトマスへと「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と語られました。しるしや奇跡の業ではなく、主イエスの歩みを見、御言葉を聴いて信じた者は幸いだと言われています。すなわち、「『まことの光』(1:9)として世に来られた、『道であり、真理であり、命』(14:6)そのものである主イエスこそ、私たちの救いではないか」と、ヨハネ福音書の著者が伝えているように思うのです。

私たちもヨハネ福音書が記された頃の人々と同様に、直接、主イエスのしるしを見ることは叶いません。生活の中で祈りを通して支えられ励まされたり、神の導きとしか考えられない体験をしたならば有り難いことです。

しかし、主イエスが来られたからこそ、その歩みが果たされ、一つひとつの御言葉が今、伝えられているのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)との御言葉を実践してくださった方は、確かに私たちのもとへと来られたのだと聖書は伝えています。そして、聖霊なる神は今も生きて働かれ、私たちを外側から包み、常に共におられるのだと約束されているのです。

クリスマスとは、主イエスが私たちの間にお生まれになったことを覚え、お祝いする日です。その場に居る者だけが見ることのできる「しるし」ではなく、世に来られ、今、私たち自身の歩みに伴ってくださっている方にこそ、この身を委ねたいのです。

2017年の歩みを終え、2018年を迎えます。これまでを守られたように、これからも主は共におられます。その安らぎの道を私たちは歩み出したいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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