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悔い改めるとき

マルコによる福音書1章Ⅰ-8節

1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。 1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、待降節を迎えた私たちは、「エルサレム入城」の出来事について聴きました。

ゼカリヤ書9章9節には、待望の王は子ろばに乗ってこられると記されています。まさに、神の約束そのものの御姿で、主イエスは都エルサレムに向かわれたのです。神の約束は必ず果たされると聖書は語っています。すなわち、主イエスが世に来られたのも、この時、主イエスが乗られる子ろばが一行が進む先の村に繋がれていたのも、全ては神の計画によることを知らされます。

社会の価値判断では、荷も運べない役に立たない存在である子ろばが、遙か昔から、神に必要とされてその場に置かれていたとは、驚くべきことです。他の動物でも、他の子ろばでも駄目だった。神にとって、「その子ろば」が必要だったのです。

私たちは、この世に生を受けて以来、それぞれの環境で、異なる人生を歩んでまいりました。しかし、今ここに集い、共に主を礼拝する者とされています。私たちがこの場に居ることもまた、偶然では無く、神によって遙か昔より望まれて、果たされているのです。「他の誰でも駄目だ。あなたが必要なのだ」と、神は言われます。その神の御心をしっかりと受け止めたいのです。

人は経験や体験を元に、先を予想するほかありません。しかし、神は遙か先を見据えておられる方です。「先に子ろばが繋いである」との主イエスの御言葉を聴いた時、弟子たちは不思議に思いつつも言われた通りに出かけていきました。彼らに倣い、私たちも神の指し示される道に信頼を置き、歩み出したいのです。

さて、本日も先週と同様に、「主イエスがこれから来られる」ということをテーマとする御言葉より聴いてまいります。

「イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:1-4)。

マルコ福音書には、主イエスのお生まれについての物語は記されていません。それに代わり、主イエスに先立って、洗礼者ヨハネが遣わされ、人々に洗礼を宣べ伝えたのだと始められています。

ルカ福音書には、洗礼者ヨハネは主イエスの母とされたマリアの親類にあたると記されています。主イエスは30歳で、人々の間を旅されることとなりますが、この少し前に、洗礼者ヨハネはヨルダン川周辺で活動を行ったのです。

当時は、祭司であるサドカイ派を通して、神殿で動物を献げることで罪を清めてもらう方法と、ファリサイ派に倣って罪を犯さない生き方をすることで救いに至る方法を主流として、人々は信仰生活を送っていました。そのような時代に洗礼者ヨハネは、人里離れ、イナゴと野蜜を食し、ラクダの毛を身に纏って活動しました。非常に目立っていたことに加え、どうやらこの人物は人々に「洗礼」というものを授け、悔い改めと罪の赦しへと導くのだというのです。当時の宗教指導者たちのもとでは救いの実感は得られなかったためか、多くの民衆が洗礼を授けてもらうために、洗礼者ヨハネのもとに集ったようです。中には、宗教指導者たちの姿もあったと記されています。

「洗礼」は、主イエスと共に生きる者とされた徴、同時にその教会の一員となる儀式として、現在のキリスト教会で大切にされています。それは、主イエス御自身が、洗礼者ヨハネの洗礼を受けられたからです。

洗礼と訳される「バプテスマ」は、「全身を浸す」という意味の語です。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川を利用したのでしょう。水に全身を沈め、起き上がる。それは、新しく生まれ変わって神を信じる者とされたことを表わします。動物を身代わりとすることで赦されるのでも、罪を犯さない努力をすることで救われるのでもなく、人々は洗礼によって新しく生まれ変わる体験をすることとなったのです。

それは、年に一度繰り返さねばならない神殿への動物の献げ物とは異なり、また、ファリサイ派の教える罪に怯える生き方も必要ない新たな道。生まれた身分、努力の量、財産による貢献など、覆せないものに左右されず、ただ一度受けることで今後消されることがない徴でした。何よりも、洗礼は悔い改める者ならば全員に与えられましたから、社会の中で拒否され、小さくされた者たちの間で、真っ先に噂が広まったことでしょう。

洗礼者ヨハネについて、冒頭では「使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。」と、言い表されています。洗礼が、主の道を整えるためにどのような意味をもつのでしょうか。

引用元のイザヤ書の文章を紹介します。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(イザヤ40:3,4)。

主のために備えられる道は、荒れ野の中に広く、平らに通されなければならないと言われています。ルカ福音書では、「谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる」(ルカ3:5)とありますが、イザヤ書では、「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ」と宣言されています。谷は、埋められて平らにされたとしても、谷としての本質は変わりません。身を起こして初めて、谷では無くなるのです。

洗礼者ヨハネは、悔い改めを呼びかけ、集った者たちへと洗礼を授けました。洗礼を受ける時、富める者も貧しき者も、「悔い改める者として神の御前に等しく立つ」という出来事が起こるのです。

主イエスの12人の弟子たちの事を思い起こします。従う方は同じであろうとも、彼らは職業や社会的な立場が異なる者たちの集まりでした。そのため、弟子たちの間では、時に「誰が一番偉いか」と話し合われていたようです(9:34)。また、徴税人を弟子とされる主イエスの横で、先に弟子とされた者たちが沈黙する姿が記されています(マルコ2:16,17)。罪人と仲間だとは思われたくなかったかたでしょう。

しかし、そのような彼らは等しい者として立たされる時が来るのです。それは、十字架にかけられる主イエスの御前から、皆が逃げ去った時です。償いきれない罪を知らされた彼らは、もはや自分の方が偉いとは言えなくなったのです。

一方、これまで抑圧されてきた者たちにとっては、洗礼は「解放」でありましょう。滞った、変えることのない、これからも続くであろう日常へと、新しく生き始める機会が、拒否されることなく与えられるからです。そこには、地面に顔を押しつけようとする力の強い者は居ないのです。

洗礼者ヨハネは、主の道を整える先駆者として、人々の前に遣わされました。悔い改める者すべてに開かれる洗礼とは、一人ひとりが神の御前に等しく立つことの徴です。

私たちは知識でも、努力でもなく、恵みとして洗礼を授けられました。主は、そのような私たちの内に広がる荒れた心を、御言葉をもって潤され、耕され、次第に柔らかく変えてくださるのです。時に傲慢になり、時に自信を無くすなど、揺れ動き生きる私たちは、決して平らとは言えない道かもしれません。

しかし、死さえも打ち崩される通り、主の歩みを阻むことのできるものはないのです。主イエスのお生まれを記念するクリスマスは、間近に迫っています。信仰とは、私たちの行く道ではなく、主が私たちを訪れてくださる道です。信仰の友と共に立ち、主の訪れの時を待ち望みたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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