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目覚めて備える

マタイによる福音書25章1-13節

◆「十人のおとめ」のたとえ 25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、律法の専門家と主イエスの問答を聴きました。

「律法学者」や「ファリサイ派」と呼ばれる人々は、掟を全て守る努力によって、正しい者として天国に迎えられ、永遠の命に与ることを願っていました。復活信仰に立っていたということです。その中の一人が、「聖書の中で最も重要な掟は何か」と質問したのです。

「最も」と問われつつも、主イエスは彼に2つの掟をもって答えられました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ22:37-39)。

真剣に神と向き合い、掟を守ることのみで、人は正しい者と認められるのか。また、人は正しさゆえに、永遠の命を受け、救われるのでしょうか。当時の宗教指導者たちは、神を愛し、掟を守る努力をしましたが、罪を犯さないように他者と関わることを極力避けました。

しかし、後に十字架の出来事にて示されるとおり、神は、御子の命と引き替えに、人を赦される道を選ばれました。神を愛するとは、すなわち、隣人を愛する神の願いをも大事にするということです。2つの掟を切り離せないものとして語られることにより、それまで隠されていた神の御旨を、主イエスははっきりと教えられたのです。

努力や功績、人気や能力によって、人は救われるのではありません。それは、神のみが恵みとして与え得るものです。だからこそ、私たちは神に大切にされていることを噛みしめつつ、隣人と共に御言葉を聴く者として歩み出したい。できるならば、神がそうしてくださったように、私たちもまた、隣人を大切にする者へと、御言葉によって耕され、変えられたいのです。

さて、本日は、マタイ福音書25章の主イエスのたとえ話より聴いてまいります。26章には最期の晩餐が記されていますから、別れまで残り僅かな時間の中、どうしても伝えたいたとえ話として、主イエスは語られたのでしょう。

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」(25:1-5)。

ユダヤ人の村で行われる結婚式の習慣が、たとえ話として取り上げられています。花嫁は、自宅で友人と共に、花婿が迎えに来るのを待ちます。花婿が訪ねてきたならば、今度は、花婿の自宅へと行列を作って向かったようです。結婚式は夜に行われていたため、花嫁の友人たちには、灯火で夜道を照らす役割が与えられていたのです。花婿を待つ間も、火を灯し続けなければならなかったのでしょう。それゆえ、式が遅れる場合には、予備の油が必要でした。

主イエスのたとえ話には、花嫁の友人として、10人のおとめが登場します。彼女の内5人は賢く、5人は愚かだったと記されているものの、花婿の到着を待たずして、全員が眠ってしまったのだというのです。

「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです』」(25:6-8)。

花婿の到着を告げる声で目覚めた時、彼女たちの灯火は消えそうだったのでしょう。賢い5人のおとめたちは、自分の灯火に予備の油を注ぎ足しましたが、あげるには足りません。愚かな5人のおとめたちは急いで買いに走りましたが、その間に、結婚式の会場の扉は主人によって閉められ、もはや中に入れてもらえなかったのだというのです。

聖書には、次のように記されています。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…中略…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:2,3)。

復活の後に天に昇られた主イエスは、天の国に私たちを迎え入れるために、再びこの世界に来てくださると約束されました。この御言葉が語られてから2000年ほど経った現代を生きている私たちには、緊張感をもって主の再臨を待つことは難しいものです。けれども、弟子たちや従った群衆、新たに加わった信仰者たちは、「明日起こるかもしれない出来事」として、主の再臨を待ち望んでいたのです。

主イエスの昇天の後、ユダを除く11人の使徒や群衆たちにより、御言葉は告げ広められることとなりましたが、ユダヤ人たちは、イエスを神の冒涜者と呼び、主に従う者たちを迫害していきました。また、皇帝礼拝が強いられる時代にも、多くのキリスト者は殉教することとなったのです。「迎えに来る」と約束されましたが、なかなか約束の時は来ない。身近な者たちが殺害されるたびに、また、待つ期間が長くなるたびに、再臨への期待は薄れていったことでしょう。そのような中に置かれたキリスト者たちにとって、本日の御言葉は諦めずに待ち望むための励ましとなったに違いないのです。

「花婿」とは「復活の主」のことであり、結婚式に招かれた「10人のおとめ」は「信仰者」を指します。

花婿の到着の見通しが立たずに眠ってしまった10人のおとめたちのように、人は、世の楽しみに心奪われ、主が再び来られる時を待っていられない者でありましょう。けれども、眠ってしまいましたが、その内の5人は「賢い」と表現されている。それは、いつ来られてもすぐに行動できるように、予備の油を用意していたからです。

「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マタイ25:13)。

私たちには主イエスが再び来られる時も、終末の日も把握することができません。けれども、目覚めて待つことができなくとも、「迎えに来る」との約束は、破棄されることはないと大いに期待することができます。なぜならば、私たちを赦すべく十字架へと進み行かれた方が、父と共におられるからです。また、主は、私たちが寝過ごすことがないように、「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」(26:5)とあるように、先に呼びかける者を遣わしてくださるのです。

愚かな5人のおとめは、自らの失敗を取り繕うために油を買いに走り、花婿を迎えませんでした。しかし、たとえ灯火が消え、手ぶらであったとしても、花婿である主は赦すだけでなく、「共に行こう」と招いてくださることでしょう。「世の光」として来られた主は、何も持たない私たち自身をも、世の光と呼んでくださるに違いないからです。これほどまでに徹底的に、私たちを想ってくださる主が再び来られるとの約束、その喜びの時を、待ち続ける者でありたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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