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最も重要な二つの掟

マタイによる福音書22章34-40節

◆最も重要な掟 22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 22:38 これが最も重要な第一の掟である。 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日の御言葉には、旅の終着点であるエルサレムに到着された主イエスが、都に滞在していたファリサイ派の人々の問いに答えられる様子が記されています。

「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」(マタイ22:34)。

当時のユダヤ教の派閥と言えば、圧倒的多数であって神殿礼拝を司るサドカイ派と、少数ではあっても聖書の律法遵守による権威に立つファリサイ派です。

サドカイ派は、旧約時代から続く祭壇での儀式において、「動物の命を身代わりとして献げることで、人の罪は贖われる」のだと教えました。命あるうちに罪を償っておくことが大事だと考えられていたのです。

一方、ファリサイ派は、聖書に記される律法を守り抜くことで「正しい者と見なされ、死の後に天国に迎えられること」、すなわち復活信仰に立っていました。罪を犯さない者のみが、永遠の命に与ると考えていたのです。

本日の御言葉の直前には、復活の矛盾を指摘したサドカイ派を、主イエスが黙らせた出来事が記されています。ファリサイ派の人々は、論争相手であるサドカイ派を主イエスが言い負かされた様子を見て、さぞ気分が良く、殺害まで企てられていると噂されるこの人物に対する共感さえ芽生えたことでしょう。

「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか』」(22:35,36)。

律法の専門家は、突っかかるサドカイ派を黙らせた主イエスが、聖書の一教師として、最も重要な掟をどのように考えているかに興味を持ったのでしょう。彼の問いに対して、主イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(37)と、申命記(旧約聖書)の内容から答えられました。そして、「これが最も重要な第一の掟である」(38)と言われたのです。

これは、当時の律法学者たちの一般的な答えでした。申命記6章には次のように書かれているからです。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(5)。 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6:4-9)。

申命記そのもの、特に、下線5節の内容は、ユダヤ人が肌身離さず身につけるべき御言葉だと言われていました。そのため、この聖句を記した紙を箱に入れ、額と二の腕に紐で括り付け、彼らは祈りました。また、家の戸口の柱にも、同様にこの聖句を打ち付けていたのです。(現在でも、敬虔なユダヤ教徒の方々は、この習慣を守っています。インターネットにも、画像がUPされています。)

「申命記」を、常に傍に置いておくべき重要な書物として、また、「申命記6章5節」を身につけるべき聖句として、彼らは時代を超えて大切にし続けてきました。だからこそ、主イエスは最も重要な掟を聞かれたとき、この聖句より答えられたのでしょう。ある意味、当たり障りのない答えと言えましょう。

しかし、「これが最も重要な第一の掟である」と言われるように、主イエスは、更に続けて答えられたのです。

「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(22:39,40)。

「最も重要」とは、唯一無二を連想させます。けれども、主イエスは二つの掟を語られました。すなわち、第一と第二の掟は、決して分かつことができない掟であると教えておられるのです。この答えは、明らかに周囲にいたファリサイ派の人々や律法学者たちへの批判です。サドカイ派を黙らせたことを喜んでいた彼らは、一転して、主イエスより彼ら自身の生き方を問いただされることとなるのです。

冒頭で申しました通り、ファリサイ派や律法学者は聖書を読み、書かれている律法を全て守るべく、常に努力していた人々です。永遠の命に至るためには、神に正しい者と認められなくてはならない。そのためには、日常で罪を犯すことは避けなければなりません。人が、最も律法に背く危険があるのは、他者と関わる時です。対人関係についての掟も数多くありますから、わざわざ危険な環境に身を置くよりも、人との関わりを避けて生活した方が楽に違いありません。「天国に行けるかどうかは個々人の努力にかかっている」と考えていたからこそ、彼らは自分の救いのみを追求し、他人事として、掟を守らない人々を批判する立場に身を置いたのでしょう。

そのような人々に対して、主イエスは申命記6章5節を第一の掟と呼び、合わせて「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われたのです。それまで隠されていた神の御心は、後の主イエスの十字架の出来事を通して明らかにされます。最愛の御子の命と引き替えにしてまでも、神は御自身に背く者たちを赦す道を選ばれました。この御心に立つならば、神を大切に思う者は、同時に、神が大切にされた一人ひとりを貴ぶ者となるように招かれていることに気づかされるのです。

人が救われるか否か、天の国に迎え入れられるか否かは、人の努力にかかっているのではなく、神のみが定め得るものです。神を愛するとは、神の律法を全て守ることではなく、神の御旨を聴くことです。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、この二つが切り離すことのできない掟であることを示すことにより、主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちの思い違いを指摘し、新たに神の御心を聴く者となるように招かれたのです。

この御言葉を聴く時、襟を正さなければならない思いにさせられます。毎週の主日礼拝において、信仰の友と共に聖書を読み、讃美歌を歌い、祈ります。時間で見るならば、1週間の内、礼拝はたった1時間です。では、残りの167時間、神に心を向けているのかと言われれば、そうではないのです。ファリサイ派や律法学者の足もとにも及ばない、信仰者としての自らの姿が明らかにされます。一方、神だけに心を向けていないのならば、隣人を大切にしているかと問われれば、やはり心配りが足りず、関わるために歩み出せていない自分の姿があります。

神を愛し、隣人を愛するためには、自らの時間を振り分けなければ果たせません。けれども同時に、私たちは与えられた自らの命を生きなければならないのです。だからこそ、ファリサイ派や律法学者たちへの招きが、今、自らに届けられた御言葉として響くのです。

神を愛し、隣人を愛す。この二つの掟は、切り離すことのできない神の御心として、私たちの前に置かれています。この根底には、一人ひとりをこの上なく大切にされる神の愛があるということです。すなわち、「私たち自身も、主によって大切にされている」ということです。自らが掟を果たせているか否かではなく、「それでもなお私たち自身が愛され、赦され、大切にされている」という福音・良い知らせを聴くところから、新たに歩み始めたい。その後に、自らの生活の中で、最も重要な二つの掟を考え、行う者に変えられたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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