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決して忘れない(召天者記念礼拝)

ヨハネによる福音書15章1-17節

◆イエスはまことのぶどうの木 15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

ルーテル教会の暦では、11月1日が「全聖徒主日」と定められています。そのため、11月の第1日曜日に、先に天に召されたお一人おひとりを覚え、「召天者記念礼拝」を致します。

もともと8世紀前半に、カトリック教会が聖人・殉教者のための聖堂を建て、その記念日を11月1日としたことから、この日が「諸聖人の日」として定着することとなったようです。プロテスタント教会には、特定の人物を聖人として崇める制度はありませんから、すべての召天者を覚えて、礼拝が行われるようになっていっきました。

「諸聖人の日(Solemnity of All Saints)」は、別に「All Hallows」とも呼ばれました。10月31日がハロウィンと呼ばれますが、これは、「Hallows Eve」が訛ったものだと言われています。

先週の日曜日に、私たちのルーテル教会では宗教改革500周年記念礼拝を致しましたが、10月31日が記念日とされています。それは、翌日の11月1日の諸聖人の日に、多くの人々が教会を訪れることを見越して、マルティン・ルターが95箇条の提題を掲げ、そこから波紋が広がっていくこととなったからです。

かつては聖人認定された者たち、殉教の死を遂げた人々のみが覚えられてきた記念日は、宗教改革以降、各々の人生を生き抜いたすべての召天者を覚える日として、その枠が拡げられることとなりました。私たちは、先に召された愛する方々を覚えつつ、この時を過ごしたいのです。

現代の日本は、非常に「死」が遠ざけられた時代と言えましょう。日本では、60%が核家族であり、自宅で家族を看取ることがほとんど無くなってきています。特に、高齢化社会においては、両祖父母がご健在だと言われる成人の方がたくさんおられます。都会に行きますと、さらに死は見えなくなります。たとえば、駅で電車が遅延した時、アナウンスや電光掲示板では、「人身事故があった」と伝えるのみです。警察の対応も早いため、何か事件が起こっても、現場を目にすることは少ないでしょう。

しかしながら、私たちの命の灯火は、いずれ消えることとなります。誰一人漏れることなく、100%すべての人は死を迎えます。「死を認識する」ということは、同時に、「生きている期間をしっかりと見据える」という思いを人の内に起こすのではないでしょうか。

この場には、大切な方を見送り、その死と直面し、悲しみ、悩み、どうすれば思い出として胸の内にしまい込むことができるのか。いつになれば納得することが、受け止めることができるのかと、悩まれたであろう方々が集っておられます。大切な方との死別において、「これまで愛した時間だけ、別れにおいても時間が必要だ」と語られることがあります。なぜ、受け入れられないのか。それは、この胸の内に、その方の生きた歩みが、そこで笑い、語り、過ごされた姿が、私たちの内に確かに残っているからです。死によっても断ち切られることの無い繋がりを、私たちはそこに見ています。

人の繋がりとは、いつから芽生え、いつまで保たれるものなのでしょうか。親とされて思い返すに、私たちは母親のお腹にいる時から誕生を待ち望まれ、喜び迎えられつつ生まれます。歩みの中で多くの人と出会い、関わりの中で交友を深め、一生の友人と出会うこともあるでしょう。そして、いずれ死を迎える時、そこには自らを覚えていてくれる人がいるに違いありません。死してなお、覚え続けられる限り、繋がりが断ち切れることはないのです。記念することによって、人の思う人生という「生から死までの期間」以上に長く、人と人との「繋がり」が残り続けるものであることを知らされます。

では、自らを覚えてくれる友人や家族が皆、天に召されることとなったとき、人の生きた証しは消滅してしまうのでしょうか。

聖書は、主イエスが語られた御言葉を私たちに伝えます。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)。

ぶどうの幹は、他の木々に比べて、それほど太くありません。ただ、葉と蔓は、日光を浴びて広く伸びていきます。そして、葉の広がりと同じだけ、根も広く伸ばしていくのです。こうして、すぐにでも切り倒せそうな太さの幹であろうとも、枝は充分に広がり、その先には甘くみずみずしいぶどうが実るのです。

主イエスは、御自身をぶどうの幹、私たち一人ひとりはその枝であると言われます。枝自身が自覚していなくとも、幹が常に栄養や水分を送る。すなわち、私たちが生きる上で必要な恵みが、主によって常に備えられているのだと言われるのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(15:16,17)。

一人ひとりを枝としたのは、幹である主御自身だと言われます。そして、一花咲かすためにも、幹と繋がっていることの大切さ、その貴さを、主イエスは教えておられます。

自分を知る者が皆この世を去ろうとも、そして、どれだけ時代が流れようとも、主は揺るぎない方として生きておられ、その主の教会によって記念する務めが果たされていくことを信じます。

「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:14-16)。

主イエスの御手には、十字架に打ち付けられた傷痕があります。しかしそれは、苦しみの徴ではなく、私たちを引き受け、世の終わりまで覚え続けていくという、主の覚悟の証しでありましょう。痛みと共に刻み込まれた私たちの名前は、これより先、決して忘れられることはないのです。

私たちの信仰の有無にかかわらず、御自身の願いによって、切れることのない関係を結ばれる主の思いが言い表されています。

私たちは11月の第一日曜日に、召天者記念礼拝の時を過ごします。しかし、1年に1度の出来事ではなく、毎週の主日礼拝の中で、私たちは召天された方々と十字架を通して向き合いつつ、主の御言葉を聴きます。教会には、血縁を超えた、主を頭とする繋がりがあります。主によって覚えら続ける。この福音(良い知らせ)を受けつつ、新たに始まる日々へと、私たちは歩み出します。

どこか分からない場所へと、大切な方が消え失せてしまったのではなく、「決して忘れない」と約束してくださった方へと、すべてを委ねることができる。だからこそ、この胸の内にある痛みを、生きている今、私たち自身も主に委ねたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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