宗教改革500周年記念礼拝
- jelcnogata
- Oct 29, 2017
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小倉教会にて、北九州地区四教会合同礼拝。
小副川幸孝牧師の説教原稿より。
8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
今日、私たちは宗教改革を記念する礼拝を守っています。ちょうど今から500年前の1517年10月31日の朝、ヴィッテンベルグ大学で聖書を教えていたマルチン・ルターは、それまで支配的だった世間の常識やしきたり、古くて悪い習慣ということではなく、聖書が示す真理に従って生きていこうという、この単純で、しかしすばらしい決意に身を固めて、「城教会」と呼ばれるヴィッテンベルグ大学のチャペルの門に、95ヵ条からなる提題を掲げました。
こうして、歴史の流れを変える宗教改革の運動が、一大展開を遂げることになったのです。宗教改革は、満ち溢れる神の恵みを、時代と生活の中で、もう一度生き生きと発見していこうという運動でした。神の恵みが圧倒的に与えられている。それがМ.ルターが見出した福音の「真理」でした。
この「真理」について、先ほど拝読されました『ヨハネによる福音書』8章32節に「真理はあなたたちを自由にする」という言葉がありました。これは、日本の国会図書館の入り口にも大きく掲げられてりたりして、有名な聖書の言葉の一節でもありますが、真理を知ると言うことは、まことに私たちを何ものにも捕らわれることのない自由を与えてくれます。
私たちは、普段、いろいろなものに捕らわれながら生きています。たとえば、お金に捕らわれたり、人間関係に捕らわれたりすることが多々ありますし、先行きが見えなくて不安や心配事を山ほど抱えることがあります。しかしそんな時、ふとしたことで、「ああ、そうだったのか、これが本当のことだ」ということがわかりますと、何かぱっと目の前が開けたような思いをすることがあります。そして、「何だ、くよくよしなくてもいいんだ」と思ったりもします。あるいは、よく経験することですが、高い山に登ったり、夜空を仰いで宇宙の大きさを実感したりしますと、「小さいことに捕らわれなくてもいいんだなあ」と感じたりすることもあります。
そして、聖書をずっと読んでいますと、イエス・キリストがもたらされたものが、そういう思いもかけないようなぱっと目の前が開くようなことであったことがわかります。何か解き放たれたような、そんな本当に嬉しくなるようなこと。イエス・キリストはそれをもたらされたのです。
だから、ヨハネによる福音書や初代教会の教父たちは、神とその神がキリストによってもたらされる救いの出来事を「真理」と呼びました。「真理」はそういう解放を与えてくれるからです。実際に、イエス・キリストとその周囲の信じる人々の間には、そうした何ものにも捕らわれない解放された自由な雰囲気が満ち溢れていただろうと思います。
そして、歴史上、その真理がもたらしてくれる自由な雰囲気を実感として受け止めて、一つの運動のようにして展開したことの一つが、16世紀のヨーロッパで起こりました宗教改革の運動でした。時代はちょうど中世の終わりから近代の初めにかけての過渡的な状況にあったのですが、過渡期というのは多くのことが混乱している状態で、時代も社会も人々も、先行きが見えない中に置かれていますが、М.ルターが生きた時代もそういう過渡期でした。
その時に、М.ルターは聖書を真剣に読んで、イエスがもたらされたものに気づき、ぱっと目の前が開かれるような経験をしたのです(「塔の体験」と言われます)。そして、そこから人々に「神の恵み」ということ、それがいかに私たちを自由にし、解放するかを語りました。
実際、М.ルターに教えを受けた人たちは、「神の恵み、救いの福音」ということにしっかり根ざして、何ものにも捕らわれない自由さをもって生きる彼の姿に大きな感銘を受けていきました。М.ルターが食事の時に語ったことをまとめた『卓上語録』などを読みましても、М.ルターという人が、いかに自由で闊達であったかがよくわかりますし、ビールやワインを飲み、その瓶を並べて玉転がしをする今のボーリングの遊びを始めたのがМ.ルターだったと言われています。
もともと、11世紀から13世紀にかけて、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還するという目的で始められた十字軍によって東西の文化交流が引き起こされ、その十字軍の失敗が、それまでのカトリック教会の権威の失墜と腐敗をもたらすと同時に、イタリアを中心にして古代ギリシャの文化と精神の再発見がおこなわれ、ルネッサンス運動という近代西欧の幕開けともなる精神的・文化的転換が起こっていました。
今でも、ルネッサンス運動の中心地となったフィレンツェやベネツィアなどのイタリアの諸都市に行きますと、現代の私たちの社会がこのルネッサンスの流れの延長線上にあることを強く感じることができますし、私たちがよく知っているレオナルド・ダビンチやミケランジェロが素晴らしい芸術作品を創り出したのがルネッサンスでした。また、物事の科学的探究ということも盛んになりました。こうした気運が西欧全体で高まっていく中で、ドイツでは、「原点に返ろう」ということで、聖書の原典であるヘブライ語聖書(旧約)とギリシャ語聖書(新約)の翻訳と研究が進められ、ルターも、その学徒でしたので、真摯に聖書と向き合い、そこから問題を提起したのです。
ルターの行動は、ひとりの聖書学者として極めて普通の、当時の方法に従ったものでしたが、歴史的・社会的状況もあって、西欧全体の社会の構造を変える大きな運動へと展開されました。しかし、その根底にあったものは、どこまでも聖書と真摯に向き合い、罪人(つみびと)である人間を救われる神の恵みを、もう一度生き生きと発見していこうというものでした。
私たちは、本当に種々雑多な問題を抱えて生きていますし、解決困難に思える複雑な状況もあります。罪と呼ばれるものも背負っていますし、地獄のように思える世界もあります。問題のない人生などどこにもありませんし、生きるということは、いつも大きな課題を背負っているということでもあります。
しかし、この問題の多い現実はまた、あふれんばかりの神の恵みの場でもあります。そして、問題があるからこそ、その中にある神の恵みを知っていこうとすること、大きな喜びを発見していこうとすること、それが宗教改革だったのです。
新約聖書の中のイエスがされた「神の国のたとえ」の一つに、「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(『マタイによる福音書』13章44節)というのがあります。この「畑」とは、人が汗水たらして耕さなければならないつらい現実のことです。どこにも慰めなど見出すことができないような現実です。しかし、その畑には「宝が隠されている」のです。その宝を見出すことができれば、そのつらい現実である「畑」そのものを買い取り、喜んで耕すようになる。「神の国」はそのようなものだ、と教えられたのです。
この「たとえ」は、まことに人間の現実というものをよく表した「たとえ」だと思います。もともと「人間」を意味するラテン語の「ホモ(homo)」という言葉は「大地(humus)」を語源にしていますし、古代ギリシャ神話でも、人間は大地から生まれ、旧約聖書は、最初の人間アダムが土の塵から創られたといいますが、それらの表象は、人間は土を耕して生きているものであることを示唆するものです。つまり、人間は、人生という自分の「畑」を耕して生きていかなければならない存在なのです。
しかし、人生という畑を耕していくことは、そう簡単でないことを私たちは良く知っています。簡単でないどころか、つらく悲しいことがたくさんあり、慰めのない状態が続くことも、私たちは知っています。しかし、この畑に「宝」が隠されている。それを見出した人は、そのつらい現実そのものである「畑」を買い取り、喜んで引き受けていくようになる。「神の国」は、そのようなものだと、イエス・キリストは告げられたのです。
そして、宗教改革は、その「宝」を見出していこうとする運動でした。だから、私たちが宗教改革を覚えるということは、単に歴史的な出来事を回顧するというのではなく、私たち自身が、自分の現実の中で、時には隠されているように思えるかもしれないが、確かにあふれている神の恵みを発見し、それを喜んで生きていくということにほかなりません。
何度も繰り返して言いますが、私たちの人生と現実は、いうまでもなく、問題に満ちあふれ、私たち自身も自分の力ではどうすることもできないものをたくさん抱えています。まして、イエス・キリストが実際に「神の国のたとえ」を語られ、福音を告げ知らせた人々の現実は、今以上につらいものであったに違いありません。
たとえば、作家の遠藤周作氏は、イエスが育ったナザレについて、「今でも、観光客をつかまえては物乞いをするはだしの子どもたちや、病や障害を抱えて生きている人の姿が至るところで目につく町で、汚水の匂いのする道と小さな家々、昼の熱射と埃、震えるような夜の冷気があり、それらすべての過酷さに満たされ、生きることそのものがつらく感じられてしまう現実がある」というふうに述べられています。
そこでは、貧しい者はどこまでも貧しく、泣く者に慰めなど与えられない悲しい人間の現実がありました。何の希望も持つことができず、明日への思い煩いばかりの生活があり、ある者は病に倒れ、ある者は社会からのけ者にされ、また、ある者は何一つ頼るものがない孤独をひとりっきりで噛み締めなければならない現実でした。この現実のただ中で、イエス・キリストは、「神の国の到来」を告げ、福音を伝えられたのです。
イエスはそれらの人々を前にして、「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん」と語り出されました。これは、言うまでもなく、貧しい人や悲しむ人、どこにも幸いなど見出すことができないような人への「神の祝福の宣言」です。教えと言うよりはむしろ、現実に苦しむ者が、神の祝福を受けるという宣言なのです。
実際に、何かつらい思いをしている時に、この言葉を聞きますと、心が打ち震えて思わず涙がほろほろと落ちてくるような深い感動を覚えることがあります。たとえば、この一週間、何かつらい思いや悲しい思いをして過ごさねばならなかった人が、「幸いなるかな、汝ら貧しき者。幸いなるかな、汝ら悲しむ者」と呼びかけられ、神の祝福の言葉が響いた時、「ああ、神さまは、何もかもご存知で、つらい思いをしているわたしを、悲しい思いをしているわたしを、今、祝福してくださっているのだ」と深い慰めを受け取ることができます。「あなたのつらさやあなたの悲しみを、神はよくご存知で、そのあなたを神は、今、祝福されている。」イエス・キリストは、わたしたちにそう語りかけられるのです。
近代以降ずっとそうでしたが、わたしたち現代人は特に、幸いは自分の努力や力で掴むものであり、神仏に頼ったところで幸福になるわけではない、と思う傾向を強く持っています。人間は、だれでも、自分自身と自分の周りの環境を自分で開拓していかなければならない宿命を背負っていますので、そして、より快適に暮らして生きたいという望みを持っていますので、それらを自分の力で何とかしようと思っています。そこであくせくしたりもします。
しかし、そこで得られる幸いや快適さは、本当の幸いなのでしょうか。むしろ、ちょうど逃げ水のように、いつも自分の手からすり抜けてしまうものなのではないでしょうか。追いかけても、追いかけても、決して満足できず、そして、疲れ果ててしまう。上田敏が名訳したブッセの詩ではありませんが、「山のあなたの空とおく、幸い住むと人のいふ」というものではないでしょうか。自分の力で幸いを求めて、かえって不幸になる、そういうもののような気もします。
イエスが告げられた幸いは、自分の力で掴む幸いではありません。それは、神から与えられる幸いです。どのように劣悪な環境の中でも、どのように力がなくても、どのように孤独で一人ぼっちであったとしても、貧しくても、つらくて悲しくても、人々からののしられても、汚名を着せられても、ただ神だけに寄り頼む者に、神から与えられる幸いです。
たとえば、私たちが自分のすべてを失う時、死の床で、地位や財産や名誉はおろか、苦労して作る人間関係さえも、何にも意味がなくなるかもしれない時、その時、神が、「あなたの人生のあれこれ、あなたの苦労や流した涙、あなたの喜びも悲しみも、いいところも悪いとことも、全部、よく知っているよ。そして、今、あなたを祝福する。」そう言われたら、なんと幸いなことではないでしょうか。それは、究極の、「これさえあれば、どんな時も大丈夫」の「幸い」ではないでしょうか。
「これさえあれば大丈夫」なのですから、このキリストの福音は、私たちを自由にしてくれます。あらゆるものに捕らわれることなく、得ても失っても、神の祝福は私たちを離れることなく、神を信頼して生きる者に注がれます。苦難は、キリストの十字架と復活によって贖われたのですから、神に信頼する者は苦難からさえ解き放たれるのです。「解き放たれる」というのは、目にしている現実をはるかに越えた大きな神の世界に放たれるということです。
私たちは、まさに、解き放たれているのです。自ら、いろいろなことに捕らわれたり縛りつけられたりする必要はどこにもありません。そして、今日、宗教改革の日に、キリストの「幸いの福音」を聴いているのです。それは、私たち自身が、現実の「畑」の中で、この福音に立ち、恵みを見出し、喜んで生きていくためです。
宗教改革の教会であるルーテル教会は、この福音に立つ教会です。ルターは、宗教改革に良く歌われる讃美歌(教会讃美歌450)で、「力なる神は、わが強きやぐら、神の国は、なおわれのもの」と歌いましたが、「神の国」は私たちと共にあるのです。
ですから、私たちは、「幸いなるかな」と言われる神の祝福を受けて、その福音に立って現実の「畑」を耕していきましょう。問題はたくさんあります。しかし、それ以上に大きな恵みを見出し、今週も喜びと感謝をもって日々を過ごしていきましょう。それが「真理」を知るということであり、宗教改革を覚える私たちの日々です。あのМ.ルターのように日々の生活の中で恵みをたくさん見出して過ごしましょう。日々を神の恵みの日々としていきましょう。
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