あわよくば我が物に
マタイによる福音書21章33-44節
◆「ぶどう園と農夫」のたとえ 21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 21:34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 21:35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 21:36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 21:37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 21:38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 21:39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 21:40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 21:41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 21:42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』 21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 21:44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、主イエスが話された『「ぶどう園の労働者」のたとえ』を聴きました。
ぶどう園が忙しい時期に、都市部などを含めた地域から、農村部に出稼ぎに来た労働者の物語です。主人は、夜明け前、9時、12時、午後3時に広場に出向き、労働者たちを自らのぶどう園に送りました。当時は午後6時の日の入りが、新しい一日の始まりと考えられていましたが、さらに主人は、通常では有り得ませんが、午後5時にも、残り1時間の労働のために、広場に残っていた者たちを雇ったのだというのです。
さて、午後6時に仕事を終え、日当は遅くに来た者から1デナリオンずつ支払われました。朝から働いた者は、さらに多く貰えるだろうと期待していたため、最後の者たちと同様の扱いを受け、不平を言ったのです。すると主人は、答えました。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(マタイ20:13,14)と。
最初から働いた者は、約束通りの1デナリオンを得ただけではなく、朝から「明日の保障」を得ていました。一方、午後5時から働けることとなった者たちは、仕事を得られない焦り、明日も同様なのではとの不安をかかえつつ、絶望の中を佇んでいたのです。
自らの価値を高めるためには、下に人を置かなければなりません。最初の労働者たちは少しでも豊かであることを望み、信じられない恵みに喜ぶ最後の労働者たちから奪い取り、差をつけるように訴えました。
しかし、主人は「私の願いなのだ」と一蹴したのです。主人の姿より、神が「不公平さ」をもって、人の差を埋められる方であることを知らされます。高くに居座る者を低くされ、低められている者を高く上げられる。このことを通して、神は、一人ひとりに与えたいと願う分の恵みを手渡されるのだというのです。
痛みを負い、苦しむ時には癒される。一歩も進めない時には支えられる。くじけた時には励まされる。主を必要とする時、私たちは与えられる恵みに気づかされます。だからこそ、そのような主の御心を知らされ、打ち砕かれた者として、最も低い場所に立たれた主のおられる場所にこそ、私たちは自らの身を置きたいのです。
さて、本日もぶどうに関わるたとえ話を、主イエスは語っておられます。羊やオリーブなどと同様に、人々にとって非常に身近な植物だったのでしょう。
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した」(21:33-35)。
裕福な主人は、ぶどうを育て、見張り、収穫し、加工するまでに必要な環境を整えた上で、ぶどう園を雇った農夫に任せ、旅に出ました。
ぶどうを植えてから、収穫できるようになるまでには5年以上はかかるでしょうか。幹が太くなり、粒も大きくなければ、加工さえできません。それゆえ、農夫たちは何年もぶどうを管理し、ついに収穫の時期を迎えたことが窺えます。
当時の旅は、陸路では野獣や盗賊、航路では難破などの危険がありました。期間が長くなるだけ、旅行者の安否が心配されたに違いありません。
雇われ農夫たちは、主人の屋敷の者から働き分の報酬を受け取っていたものの、収穫期に遣わされてきた僕たちを殴り、石で打ち殺したのです。2度目に送られてきた僕たちをも、彼らは同じ目に遭わせました。
「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」(21:37-39)。
連絡係が屋敷と旅行先を往復して、主人の指示に従っていたとするならば、このやり取りには、非常に長い時間の経過があったことになります。その間にも、ぶどう園を管理し続けた農夫たちは、最後に遣わされてきた主人の息子をも、外に連れ出して殺してしまったのだというのです。
雇われ農夫たちは、ぶどう園を整えるまでの苦労を知りません。種が育つように石をどけ、木を伐り、土を耕し、肥料を混ぜ込む。ついに芽を出したぶどうの、これからの成長を見据え、野獣や盗賊の被害を防ぐために、見張りのやぐらを立てる。その収穫を待ち望み、絞り場まで作る。そこには、主人の喜びがあったことが分かります。それゆえ、僕たちを遣わし、喜ばしい報告を待ちわびたのでしょう。僕たちの死を聴き、再度遣わしても結果は同じです。息子ならば敬ってくれるだろうと思い、送り出したものの殺されてしまった。主人は、いかに無念だったことでしょう。
主人の想いに背き続け、収穫を受け取ろうとした僕たちや息子を殺し、最終的には、ぶどう園を我が物としようとした農夫の姿。そこには、先週の内容にも通じる「約束以上の物を求める」人の欲望が現れます。自らが主人となり、すべてを我が物とするまで、雇われ農夫たちの欲は尽きることがありませんでした。
このたとえ話を聴いた宗教指導者たちは、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(21:41)と、雇われ農夫たちを批難しました。
すると、主イエスは言われたのです。
「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(21:42-44)。
旧約聖書では、神の御旨を伝えた多くの預言者が、人々からひどい仕打ちを受けました。最終的に、神の独り子をも、十字架にかけてしまう者たちの手から、神の国(天の国)の収穫(ユダヤ人たちの救い)は取り上げられ、異邦人に与えられるのだと言われます。
もし、神の御言葉を自らの欲望のために利用して伝えるならば、御言葉の力も小さく押しとどめられることとなります。主の御心の広がりや深さが、人の把握し得るものであるならば、そこには限界があるため、この身を全て委ねることはできないでしょう。
けれども、神の御心とは本来、人の内に留めることができない、大きく深い広がりがあるものです。十字架にかけられた主イエスこそ、「家の基礎には大きすぎると捨てられた親石だ」と言われている通りです。全貌が見えないほど大きな、主の神殿の礎としてのみ、主イエスという親石は用いられるのです。
私たちは、主によって命を吹き入れられ、日々生かされているのだと聖書は伝えます。それでも、社会には優劣や差があり、まるで自らが世界の中心であるかのように横暴に振る舞う者によって、端に追いやられる人々が居るのです。それは、喜びと希望をもってこの世界を形造られた神の御心とは、真逆の在り方であることを知らされます。
それでもなお、主は私たちを赦され、今、共に神の国の収穫を喜ぶ者となるように招かれています。実りとは、一人ひとりが自らの分の恵みを受け取り、主に望まれて生かされていることを知ること。安心して生かされるということでしょう。そのような神の国の様子が、この社会に現されるように、私たちは御言葉に励まされ、時に打ち砕かれつつ、主の御心を聴く者とされたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン