与えられた責任
マタイによる福音書18章15-20節
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、本日、そして次週の御言葉は、マタイ福音書の著者によって、一つのテーマのもとに繋ぎ合わされています。そのテーマとは、「教会の在るべき姿勢」です。
著者は、ユダヤ人でありながらも主イエスに従った者が集う教会(ユダヤ人キリスト者)に属していたと言われます。マタイ福音書は、ユダヤ人の大切にしていた「旧約聖書」の約束が、確かにイエス・キリストによって果たされたと伝えます。それゆえ、主イエスによって真実を告げられたならば、当然、人は悔い改めるだろうし、教会の一員となったならば、その責任を果たすべきだと、考えていたようです。
9月17日の礼拝において、弟子シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と、告白した出来事を聴きました。主イエスは、「ペトロ(岩)」と呼びかけ、彼の上に教会を建て、「天の国の鍵を授ける」(16:19)と言われました。その鍵を有する者が「地上でつなぐことは、天上でもつながれ……地上で解くことは、天上でも解かれる」のだというのです。ペトロの亡き後、教会では、天の国の鍵の管理は、教会に引き継がれたと考えるようになりました。
この視点から先週の御言葉を思い起こす時、他の福音書とは異なる意味で、マタイ福音書の著者が物語を伝えようとしていることに気づかされます。
「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(マタイ18:1)と問うた弟子たちに対して、主イエスは彼らの中心に子どもを立たせて言われました。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(18:4,5)と。「天の国の鍵を持つ教会に属する」ということで、「救われる」と考えられていたのでしょう。だからこそ、天の国に行った先で、「誰が一番偉いか」と弟子たちは問うのです。
この直後の「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(18:10)との御言葉では、子どもだけでなく社会的に力のない人々も含み、「小さな者」と表現されています。彼らを一人でも躓かせてはならないと、聴く者へと身を低くするように促すのです。
続けて「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」(18:12)と、教会で親しまれる「迷い出た羊」のたとえが語られています。主が教会から迷い出た一人を捜しに出かけられる方であるからこそ、教会員も主に倣い、教会から離れそうになる一人を捜しに出るように教えられているのでしょう。
以上のように、マタイ福音書の著者は、ペトロより受け継がれた「天の国の鍵」を持つ、教会に所属する者たちに対して、これらの内容を伝えているのです。
本日も、教会員へのメッセージとして語られる御言葉より聴いてまいります。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(18:15,16)。
申命記には、次のように記されています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」(申19:15『裁判の証人』)。
自分に罪を犯した相手が居るならば、まずは二人きりで忠告し、それでも聞き入れなければ、裁判と同様に、二人または三人の証人を立てて話し合うように言われています。教会とは、人の集合を指します。共に歩むからこそ、いつの時代でも衝突は起こり得ることです。その時、感情的にではなく、公平に考えるようにと、教えておられるようです。
「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18:17,18)。
最終的に、罪を悔い改めない者は教会に委ねられ、天の国の鍵の権威により、出された判決が地上と天上において適用されるのだというのです。
冒頭で申しました通り、マタイ福音書は、ユダヤ人キリスト者が集う教会で読まれたと言われます。もともとユダヤ教徒として律法を厳格に守っていた者たちからすれば、悔い改めない異邦人や徴税人とは、救いに最も遠い者たちだと考えられていたのでしょう。「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とは、彼らを軽んじる表現です。ここでは、主イエスの御言葉として記されていますが、マタイ福音書の著者や当時の教会の価値観が入り込むことで、このように書かれたのでしょう。なぜならば、主イエスは、徴税人として働いていたマタイを弟子として招く際、他の徴税人や罪人と共に食事をしておられるからです(9:9-13)。軽んじていたならば、他者に公開されていた食事会において、彼らと共に席につくことは、まず無いことです。
いずれにしても、教会には天の国の鍵が託されており、一人でも多くの人が、悔い改めて同志になることが、主の望みであると考えられていたことが分かります。そして、一度属したならば、小さな者を躓かせる罪を犯さないように。また、罪を犯した相手を感情的に切り捨てることなく、手順に従い、教会の総意として結論を出すようにと、この御言葉では伝えられています。
「人は、正しく生きたいと願おうとも、罪に傾いてしまう弱さを持つ」と言われますが、マタイ福音書における主イエスの御言葉では、「一人で生きよ」とは命じられておりません。むしろ、一人では自己中心的な結論を出してしまう局面であろうとも、「教会に集う信仰の友と共に考える」という、御心に従った道を探る術を教えておられるかのようです。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)との御言葉を思い起こします。その通り、天の国の鍵を託された者たちが、一人でも多くの人々の救いを望み、「つなぐ」べく、真剣に道を模索していたことを知らされるのです。
しかし、人は、正しくも、優しくも在り続けることは難しいものです。この世界にある痛みとは、多くの場合、他者との関わりや社会の中を生きようとする時に生じると言われます。天の国の鍵を託されたという責任があろうとも、他者と生きる以上、衝突や摩擦は避けることができません。自分自身の人生だけで手一杯でありながらも、加えて主の御心を実現する責任が与えられている者に対して、主イエスは言われます。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18:19,20)。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」とは、まさに教会のことでありましょう。そして、十人十色である私たちが、真に想いを同じくできるとするならば、それは主の御前に立つ時にほかなりません。信仰の友と共に主の御心を聴き、信頼して委ね、祈る時、その声を主は聴いてくださる。この力強い約束が、今、私たちに手渡されるのです。
私たちに託されている、「主と人々とをつなぐ責任」だけを見るならば、その重圧に押しつぶされそうになることもあるでしょう。けれども、私たちの願いを聞き届けた後、実際に結ばれるのは主御自身です。そして、私たちが動き出す前に、これから出会うその人々に、主が既に働きかけられていることを覚えたいのです。
信仰の友との出会いが与えられ、共に祈るときには聞き届けられるとまで約束されている。圧倒的な主の御業を知らされている私たちだからこそ、責任ではなく恵みを数え、裁きではなく赦しを願い、安心の内に生かされていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン