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小さな者

マタイによる福音書18章1-14節

◆天の国でいちばん偉い者 18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 ◆罪への誘惑 18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。 18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。 18:8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。 18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」 ◆「迷い出た羊」のたとえ 18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 18:11 (†底本に節が欠落 異本訳)人の子は、失われたものを救うために来た。 18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日の御言葉は、弟子たちの「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(マタイ18:1)との質問より始まります。

「マルコ福音書」には、主イエスが2度目に受難予告(苦難、十字架の死、復活)について語られた後、弟子たちが道中「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(マルコ9:34)と、記されています。「いちばん」を政治的・社会的に力を持つ者と考えるならば、最後の者とは力を持たない者を指します。けれども、“天の国においていちばん偉い者”とは、御自身が抱き上げられた“一人の子どもを受け入れる者だ”と、主イエスは言われるのです。

天の国に序列があるならば、それは社会の価値観とは真逆となる。だからこそ、“すべての人に仕える者となるように”と、まずは目の前に居る子どもを受け入れる道へと主イエスが弟子たちを招かれた出来事として、マルコ福音書は伝えています。

マタイ福音書の著者は、主イエスの受難予告を聴いた後に、見当違いな議論をする弟子たちの姿は伏せたかったのでしょう。そこで、弟子たちが「天の国」について質問した出来事のみに留めて伝えています。

しかし、いずれにしても「だれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」とは、弟子たち自身が偉くなりたいと思っていたことを証明する問いです。主イエスと共に歩み、多くの人々を癒やしたり、助けたり、他者から必要とされる立場で歩んでまいりました。それゆえ、弟子たちは身を粉にして働く自らが、天の国において、他者よりも秀でた者に違いないと思っていたのでしょう。

「いちばん」を決める時、そこには判断の基準が必要です。現在の社会より考えるならば、学生時代には勉強やスポーツができること、良い就職先に勤めることでしょうか。社会人になれば仕事ができる、優れた能力を持つ、給料が良い、地位などが比較されます。また、多くの物を持っていること、贅沢な生活をすること、美しい容姿なども、人が手にしたいと願うものでありましょう。

このように順位をつける時、下の立場に置かれる者が居ることに気づかされます。勉強や運動が苦手、就職先が見つからない。要領が悪く、仕事量が少ない。お金がなく、生活がまわらない。見た目が好ましくない。皆、理想を持つからこそ、理想的でない自らを少しでも高めるためには、下の人間を増やす必要があり、ここに比較と競争が生じるのです。

「だれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」との問いは、弟子たちを彼ら自身の社会の基準、他者との競争の只中に立たせます。弟子たちが腰を据える場所が、神の御心から遠く離れていることを示すために、主イエスは言われます。

「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである』」(マタイ18:2-5)。

子どもは、親に世話をしてもらわなくては生きていくことはできません。社会の順位づけに当てはめるならば、何もできず、持たない子どもの現状に価値を見出すことはできないでしょう。主イエスの時代には、子どもは親の所有物と考えられ、一個人としての人権は認められていませんでした。聖書に、弟子たちが主イエスの傍から子どもを遠ざけようとした出来事が記されているのは、このためです。

家庭の中で子どもが大切にされていたのは現代と同じでしょうけれども、主イエスは、御自身と弟子たちの真ん中に子どもを呼び、子どもから学ぶように教えられたのです。それは、社会で考えられている序列は、天の国では全く意味をもたないことの宣言です。同時に、弟子たちの中心に立たせることによって、社会において軽んじられていた、子どもたちの存在そのものを回復する招きであると言えましょう。

確かに、小さいほど子どもは何もできませんが、彼らには、人が大人になるにつれて捨て去ってしまう大切なものを持っています。その一つに、見えないものを見る力が挙げられます。たとえば、幼稚園で「見えないモノ探し」をした場合、見つけたものを教えてくれます。風、空気、カレーの匂い。他にも、子どもたちは、愛情や友情、優しさやぬくもりなども知っています。何よりも、神さまにお祈りする姿には、そこに信頼し、聴いてくださると信じる想いが見えます。親や周囲の人に支えられなければ生きることのできない子どもだからこそ、全てを委ね、信頼することができるのでしょう。

現在は、多くの子どもが幼稚園や保育園を利用しますから、他の子どもと比べたり、少しでも強く賢くなったりと、幼い頃から競争する社会の中を生きなければなりません。子どもが子どもらしく、それぞれの個性を存分に発揮して生きるには難しい世の中です。それゆえ、なおのこと見えないものを信じる心、全てを委ねられる環境を整えたいと願うものです。

「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(18:3,4)。

主イエスは、子どものように、神によって日々養われ、純粋に御言葉を受け取り、この方にすべての信頼を置く者とならなければ、天の国に入ることはできないのだと言われます。そして、社会の中で小さく見られていようとも、信仰者が見倣うべき一人の子どもを受け入れるように招かれるのです。

一人の子どもを受け入れるとき、私たちは、神の御心をも受け取ることとなります。すなわち、私たち自身が神に手入れされ、あらゆる糧を受けて養われていること。競争の中で、他者を蹴落として駆け上がらなくとも、等身大の自分が神によって大事にされているのだとの福音を、主イエスの御言葉より聴くのです。私たちは何かを為すことで神に受け入れられるのではありません。私たちを大切にされる神の御心がすでに語られています。この約束に、この身のすべてを委ねる者となるように招く主の御言葉を受け取りたいのです。

「だれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」との問いは、人の胸の内を代弁するかのようです。誰でも、裕福さ、綺麗な容姿、健康などを欲しますし、持っていないならば、その思いは大きく膨らんでいきます。比較し、競争することで、一時的に自らの現状を受け入れることはできるかもしれませんが、上には上がおり、人の欲は尽きません。背伸びし、立場を高く上げようとするだけ、苦しさが伴うことに気づかされます。

教会においても同様でしょう。御言葉に聴き、時間を割いて奉仕する。特に高齢化が進めば、周囲に穏やかな生活を送っている友人を見つつも、いつまで経っても休めない。少しでも多く神の恵みをいただきたいと望んでも、罰は当たらないはずです。

しかし、主イエスが子どもを中心に立たせ、弟子たちを諭されたように、私たちもまた、「いちばん」を決めたがる社会の価値観を脇へ置くように招かれます。“わたしがあなたを形づくった。だからこそ、あなたはわたしにとってかけがえのない存在なのだ。比べなくていい、競争しなくてよい。”私たち一人ひとりを御自身の子どもとして受け入れられる方の御心に聴きたいのです。

他者が持っていない物を誇ること、自らが持っていない物を望むことは簡単にできます。反対に、私たちが持って生まれた物や今手にしている物を喜ぶことは難しいですし、見えない神が私たちに恵みを与えられているのだと信じることも、大人となった私たちには大変なことです。だからこそ、主の招きを改めて聴き、この身を全て委ねる子どもたちの姿より学びたい。方向転換し、社会における「小さな者」を目指して歩み出したいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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