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天の国のたとえⅡ

マタイによる福音書13:44-52節

◆「天の国」のたとえ 13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。 13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。 13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 ◆天の国のことを学んだ学者 13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。 13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、毒麦のたとえ話を聴きました。

僕たちは、良い麦の種が蒔かれたはずの畑に、毒麦が生えているのを見つけました。それを聞いた主人は、良い麦を誤って抜かないために、収穫まで待ってから集めるように指示した、という内容です。

私たちは、このたとえの意味を「世界」という大きなスケールではなく、「私たち自身」を麦畑として捉え、このたとえ話を受け取りました。その場合、「良い麦」とは、主の御言葉のことです。現代の私たちにまで伝えられているように、御言葉とは朽ちずに残り続けます。極限を迎えようとも、御言葉は人を支える力として残ることをも意味します。一方、「毒麦」とは、御言葉に似せてあるけれども、人の願いを根拠とした言葉でしょう。苦しむ者を支えるどころか、神の御心とは異なる方向に引き離すのです。

私たちという畑には、主の御言葉に混じり、毒麦も生えています。「敵の仕業だ」(マタイ13:28)と言われる毒麦は、もしかすれば私たちの想いから生え出たのかもしれません。

しかし、主は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(13:30)と言われます。御言葉の種を蒔かれ続ける方だからこそ、毒麦をも含むこの身のまま、それらの実りをしっかりと見るように主イエスは招かれるのです。

苦しさの只中でこそ、残り続ける御言葉と出会う。この約束に励まされつつ、既に主によって種蒔かれた者として、新たに歩み始めたいのです。

さて、本日の御言葉でも引き続き、「天の国」についてのたとえ話が語られています。

先週の御言葉(13:24-30)を、直後に記される「毒麦のたとえの説明(13:36-43)」の通りに受け取るならば、その内容は“最期の審判の厳しい告知”となります。世の終わりが来た時、“天使が毒麦である悪人を束にされて焼き、正しい人々のみが天の国に入る”と言われているからです。

同じように読むならば、本日の御言葉もまた、私たちを神の審きの前に立たせる厳しい言葉に変わるのです。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(13:44-46)。

偶然宝を見つけた人は、何としても宝が欲しかったのでしょう。彼は、合法的に他人の畑の中にある宝を得るために、全ての持ち物を売り払い、その畑そのものを買い取りました。

畑の中の宝とは、世に降られた主イエスのことを表わします。“世に遣わされた主イエスと出会った者は、財産だけではなく全ての物を犠牲にして従うべきだ”と、命じられているようです。次の「高価な真珠を見つけた商人のたとえ話」も、偶然か、捜し求めて見つけたかの違いはありますが、同じように受け取ることができます。

また、この後のたとえ話では、漁師が引き上げた網にかかった魚を岸に上げ、「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」様子が語られます。天の国が実現する時、天使もまた正しい人と悪い者を選別し、悪い者は「燃え盛る炉の中に投げ込」まれるのだというのです。“毒麦のみを束にして燃やす”という内容と同じ事が、ここで語られています。

もし、審きに注目してたとえ話を聴くならば、この御言葉から安心を得ることはできません。ファリサイ派や律法学者のように、また、若かりしマルティン・ルターのように、“自分は正しく生きることが出来ているのか、審かれはしないか”という不安に苛まれるほかないのです。

しかし、聖書は私たちに告げるのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16,17)。

この御言葉の通り、主イエスは十字架にかかられることにより、御自身の犠牲によって一人ひとりを赦し、再び神と人とを結び合わせる道を選ばれました。ここに、神の御心が示されるのです。

最期の審判が行われると言われる「世の終わり」において、確かに、私たちはそれぞれの生き様に応じて、神の命じられる道を行かねばなければならないかもしれません。けれども、審判を下されるのは、幾度も失敗し、神に背き続けるこの身を受け入けてくださる主であり、御自身の命と引き替えに赦す道を選ばれた方です。たとえ審きの場に立たされるとしても、私たちが主の御許に続く道に招かれると大いに期待することができるのです。

“正しく生きて救われるか、悔い改めずに審かれるか”という選択肢は、もはや私たちの前に置かれておりません。今や、“わたしが迎えに行く時まで安心して待つように”という主の招きが、私たちに語られていることを覚えたいのです。

主イエスの十字架の出来事によって、神の御前に立たされる者の置かれる状況は180度変えられます。この視点で、本日の御言葉を改めて聴きたいのです。

畑の中にある宝に気づいた人は、すべての持ち物を売って、畑自体を買い取ったと記されています。土地ではなく持ち物を売ったということは、それまで自らの畑を持っていなかったのでしょう。彼は、宝を見つけたことで畑を買い、宝を得た喜びをもって、自らの畑を耕す者へと変えられたのです。

神は、主イエスをこの地上に遣わされました。宝としての主イエスと出会った者は、“宝が置かれた畑”としての世界を耕す者へと変えられるのだと言われます。世を耕すとは、主イエスの御言葉を受け取って生き、御心と離れた社会の在り方と向き合っていうことであり、聴いた御言葉を他者にも伝えていくということでありましょう。一人ひとりのもとへ足を運び、御言葉を語られる主イエスは、私たちを“世を耕し、天の国を広げる一端を担う者”となるように招かれます。強制するのでも、恐怖によって支配されるのでもなく、喜びによって私たちを押し出すのです。こうして、主イエスと出会った者たちによって、世界は耕され、ここに天の国が拡げられていく。非常に小さなからし種が大きく育つように、また、パン種が小麦粉全体を膨らませるように、たった一つの宝によって、この御業が果たされていくのです。

主イエスの語られた天の国のとは、この世とは違うどこかで実現する地ではありません。この世界に広げられるものであると、主イエスはたとえ話によって教えておられます。主イエスの訪れこそ天の国の始まりであり、教会に集う私たちは、この福音(良い知らせ)を真っ先に知らされるのです。

この世に生きる以上、私たちが背負わなくてはならない重荷は数多くあります。自分一人ではなく、他者と共に生きるならば、喜びと共に更に苦しさをも負うことになるでしょう。

しかし、私たちは主イエスという宝を見つけ、天の国の拡がりを知らされるだけではなく、共に世を耕す者として招かれています。それは、主御自身が私たちを宝とし、最も良い物を語りかけようと日々関わり続けてくださっていることを意味します。今、主と共にあること、そして、与えられている命において、既に私たち自身が天の国を生きている、生かされていることを覚えつつ、新たに生活の場へと遣わされていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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