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天の国のたとえ

マタイによる福音書13章24-35節

◆「毒麦」のたとえ 13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 ◆「からし種」と「パン種」のたとえ 13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」 13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」 ◆たとえを用いて語る 13:34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。 13:35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、「種を蒔く人」のたとえ話を聴きました。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(13:3)。

主イエスは、御言葉という種を出会う者へと蒔かれます。蒔かれた種が、道端に落ちれば鳥に食べられ、石の上に落ちれば枯れ、茨の間に落ちれば生長が阻まれることとなります。一方、良い土地に落ちた種は、多くの実を結ぶこととなるのだと、主イエスは言われます。

痛みの多い世を歩む中、人は心に鎧を纏い、自らを守る術を学びます。これまでの体験を活かし、摩擦や衝突の少ない道を選びますし、自分の好みを把握し、好きな物を側に置きつつ生活します。自分の力で生きるためには、地に足をつけ、身を固めなければなりません。

種蒔かれる土地である私たちは、もしかすれば種の生長を阻む荒れた土地であるかもしれません。しかしだからといって、主イエスは種を惜しまれることはないのです。むしろ、諦めることなく、御言葉を語り続けられる方であることを、荒れた地にまで「種蒔きに出て行った」種を蒔く人の姿より気づかされます。

礼拝や日常の出来事において、また、信仰の友との関わりの中で、主イエスが種を蒔くために、幾度も私たちを訪ねてくださっていることに気づかされます。この繰り返される主との出会いにより、私たちは次第に耕され、ほぐされていくのです。

自分が良い土地か悪い土地か、御言葉の種は根差すのか、実りに与ることができるのか。答えは、主のみが知っておられます。だからこそ、自らに目を向けるのではなく、本日も私たちを訪ねてくださる種蒔き人イエスにこそ向き直り、この身を委ねたいのです。

「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。『天の国は次のようにたとえられる』」(13:24)。

12章には、“安息日の掟に背いた”という理由で、ファリサイ派の人々が主イエスの殺害を企てたことが記されています。彼らの思惑を御存知だった主イエスは、この時に御自身に従っていた者たちへと、多くのたとえ話を語られました。十字架にかけられるまでに、どうしても伝えなければならないことがあったのです。

「天の国」とは、神の支配が隅々までおよぶ国のことであり、世の終わりが来た時、地上に実現されると言われています。けれども、天の国の全貌は明らかにされていませんし、終わりの時がいつ来るのかも分かりません。“このような場所だ”と説明されたとしても、「百聞は一見にしかず」と言われるように、理解が及ばないことでしょう。それゆえ、主イエスは人々の生活に関わるたとえを用いて、天の国の様子を伝えられるのです。

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」(13:24-26)。

しもべたちは、麦畑に毒麦が紛れていることに気がつきました。毒麦とは、形が麦に似ており、食べてしまうとめまいなどの症状を引き起こすそうです。毒麦について畑の主人に報告したところ、“誤って麦を抜く可能性があるため、収穫まで待ち、その時に焼くために束にせよ”と、命じられることとなりました。

後の13章36-43節には、このたとえの説明が記されています。

「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」(13:37-39)。

いずれ来たる「最期の審判」においては、神に従う者のみが救われ、背く者は地獄の炎で焼かれる。神の働きかけを知りつつも、その御心から離れて生きるならば、神の怒りが向けられても仕方がないように思えます。

しかし、各自の生き様が救いと結びつけられていることに違和感を覚えます。どうしても、十字架にかけられようとも赦す道を歩み抜かれた主イエスの歩みとは、真逆のことが語られているように思えてならないのです。

聖書には、人の歴史に働きかけられた神の御姿や御言葉が記されていますが、それらの出来事は人の手によって編集され、一冊の書物となりました。すなわち、著者の価値観が入り込む余地があるのです。“正しい者が救われ、悪人が審かれる”とは、審くのではなく、人を赦すために十字架を担われた主イエスの歩みを無意味にします。だからこそ、私たちは、主イエスの十字架の死と復活の出来事を大前提とし、そこから全ての御言葉を受け取る必要があるのです。

それゆえ、毒麦のたとえの説明(解説)からではなく、先週の「種を蒔く人のたとえ」で語られた内容を踏まえつつ考えたいのです。マタイ福音書7章には、次のように記されています。

「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける」(7:15,16)。

麦と毒麦は、生長の途中には見分けにくくとも、実った時に違いが明らかとなると言われます。

この世界には、多くの言葉や思想があるように、人という土地に蒔かれる種は、主の御言葉だけではありません。中でも注意すべきは、神の御言葉に似ているけれど、人を苦しめる毒麦のような言葉。すなわち、神から人を引き離し、自分の力を信じさせる言葉でありましょう。

人は、才能や努力、地位や財産によって神の御心を変えることは出来ないし、与えられる恵みを増やすことも減らすこともできないのです。それらは、神の領分であり、ただ御心によって与えられるものだからです。

神の御言葉は、耐え難い痛みの只中にあり、これ以上頑張れない状態にある時に、それでもなお私たちを支える力として残り続けます。一方、毒麦は崩れ落ちそうな身体に、鞭を打ち、立ち上がらせようとします。この実りによって、良い麦と毒麦とを見分けるようにと、主イエスは教えておられるのです。

「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った」(13:27,28)。

人を神の御言葉から引き離し、自らの努力に頼らせる敵とは、人の内から生じるものでしょう。弱さを持つこの身は、御言葉の種を阻む荒れた土地、麦と毒麦の混ざり合った麦畑のようです。

しかし、主イエスの蒔かれた御言葉の種は、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」と言われています。一本でも多くの御言葉の実りが残るようにと、主イエスは毒麦の含まれる麦畑のまま、私たちを受け入れ、見守られるのです。

私たちには、良い麦としての御言葉と、毒麦として私たち自身を苦しめる言葉を見分ける力はないかもしれません。けれども、主イエスが蒔き続けてくださった御言葉の種は、確かに私たちという土地に根づき、生長していることを信じます。そして、苦難の中にある時にこそ、最後まで残り続ける御言葉を、しっかりと見据えたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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