種を蒔く人
マタイによる福音書13章1-9節
◆「種を蒔く人」のたとえ 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。 13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 13:9 耳のある者は聞きなさい。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、主イエスの招きの御言葉を聴きました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:28,29)。
軛とは、2頭の牛を繋ぎ、耕作機を曳かせるために用いられる木枠です。繋がれた2頭を同じ方向に進ませ、耕作機や土を耕す際の重さを分散させることができます。
主イエスは、呼びかけに応じる者へと、“今ある重荷をおろすだけではなく、新たにわたしの軛を負うように”と、語られました。「負いやすく、…中略…軽い」と言われるように、その軛は私たち以上に、主イエスへと負担がかかるように削られているのでしょう。
十字架の死によって示されるように、主イエスは、その生涯において多くの苦難を背負われました。憎まれ、侮辱され、裏切られ、暴力をふるわれ、死の底にまで降られたと、聖書が伝えている通りです。痛みや苦しみのどん底に立たれた方だからこそ、私たちの重荷を知り、それを背負うことができるのだと知らされます。
御言葉を聴きつつ歩む私たちは、今、主の軛に繋がれ、伴われる者と言えましょう。私たちのこれまでも、これからの歩みも、背負う重荷までもすべて、主は御存知なのだと言われます。それは、今後私たちがいかなる事態に陥っても、孤独に捨て置かれることはないという約束です。
私たちは、今ある重荷をおろし、「負いやすく、……軽い」主の軛を新たに負うように招かれています。自らの力に頼って生きようとする想いを脇へ置き、絶えず呼びかけてくださる主にこの身を委ね、新たに歩み始めたいのです。
さて、本日は、主イエスが湖のほとりで群衆に語りかけられた御言葉より聴いてまいります。
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた」(13:1,2)。
この直前の12章には、主イエスとファリサイ派の人々との衝突が記されています。彼らは、“安息日をないがしろにした”という理由から、主イエスの殺害を企てるのです。ついに、十字架へと至る道が敷かれたと、明らかにされています。そして、だからこそ、主イエスは御自身に与えられたこの世での役割を果たすべく、人々へと御言葉を語って行かれるのです。
「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった』」(13:3-7)。
後の13章18-23節には、このたとえ話の解説が記されています。種を蒔く人とは主イエスであり、蒔かれた種は主の御言葉を指します。そして、蒔かれる土地は、主イエスに語りかけられる人々を表わしています。
“道端に落ちた種が鳥に食べられた”とは、「悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」(19)ため、実ることがない人のことです。主イエス以上に、他の人の言うことを優先する時、このような事が起こるのでしょう。
“石だらけで土の少ない所に落ち、芽を出したが枯れてしまった”とは、一時は喜ぶものの、すぐに語られた御言葉を忘れてしまう人のことを表しています。浅い土に根が張れないように、御言葉は、その人の内に根づくことができず、枯れてしまうのだと言われます。
“茨の間に落ち、生長が阻まれた”とは、世にある悩みや楽しみに捕らわれる人を指します。それらに覆い隠されてしまった御言葉は、その人の内で育つことができないのだというのです。
御言葉自体に生長し、根を張る力があろうとも、共通して、蒔かれた土地の状態がそれを阻んでいます。12人の弟子と共に宣教の旅をされた主イエスが、「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」(11:20)と記されています。御言葉の種の生長を阻む土地とは、主イエスを拒絶した人々の姿と重なります。
「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(13:8)。
良い土地に根づいた御言葉は、非常に多くの実を結ぶと言われます。まさに、種を蒔いた甲斐があったというものです。もし、私が種を蒔く者であるならば、良い土地のみに蒔きます。実を結ばないことが予想できる場所に蒔けば、種を無駄にしてしまうからです。多くの人が、このように考えるに違いありません。
しかし、重要なのは、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(13:3)と、語られていることです。種を蒔く人は、種が芽を出すことも、根差すことも出来ない土地に対しても種を蒔くために、出かけていくのです。人々が御自身を拒否することを御存知でありながらも、主イエスは町や村へと足を運ばれました。それは、芽吹くことや根差すことを差し置いて、神の御心を語ることこそ、主イエスの務めだったからだと受け取りたいのです。ここに、良い土地にも、悪い土地にも目を向けられ、最も良い物を与えられる神の御心が現わされます。
後に、主イエスの宣教の旅は、十字架の出来事で終止符を打たれます。人々の頑なさが、主イエスを十字架にかけたと言えましょう。
けれども、彼らが主イエスに向けた憎しみがなければ、復活という御業は果たされなかったのです。良い土地のみを残すためならば、十字架の出来事は必要なく、審きによって滅ぼせば済みます。そうされなかったのは、主イエスとの出会いを通して、語られた御言葉や御業によって一人ひとりが耕され、良い土地へと変えられるように、神が望んでおられたからに違いありません。
これまでの人生の道のりを思い起こす時、私自身が御言葉の種の生長を阻む、荒れた土地であることを思い知らされます。けれども、幾度も御言葉が語られ、信仰の友との出会いや関わりを通して与えられた物によって、少しずつ耕されるのです。自らの手によっては不毛の大地となるほか無いこの身を、外側から耕し、豊かな土地とすることができるのは、主お独りのみであることを信じます。良い土地は多くの実りを収穫する喜びが、悪い土地には耕されていく驚きが与えられるのです。
今もなお、一人ひとりが神へと心を向ける者となるように願い、主イエスは種を蒔き続けておられます。私たちが教会に集うのも、御言葉に力づけられる体験も、主が手入れしてくださるからこそ果たされる御業でありましょう。痛みの多いこの世界を生きるためには、自分を守るために身を固くしなければならないこともあります。
しかし、力強い主の御手によって、私たちは柔らかく温かい土地に変えられるのです。種を蒔く人は、今日も私たちを訪れ、御言葉という種を蒔かれます。もし少しでも実るのであれば、私たちもまた、主と共に収穫した種を蒔く者とされたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン