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安らぎを得る

マタイによる福音書11章25-30節

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

これまでの3回の主日礼拝において、主イエスが弟子たちへと語られた御言葉を聴いてまいりました。お独りで全ての町や村に足を運ぶことは難しいため、主イエスは、群衆の中から共に働く12人を選び出され、彼らに次のように言われたことを思い起こします。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。…中略…また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(マタイ10:17,22)。

これより各地を旅する弟子たちへの忠告と受け取れますが、この時期には、まだ主イエスの活動に対して敵意を持つ者は少なかったはずです。すなわち、主イエスは“十字架の死と復活の出来事の後”について語っておられることに気づかされるのです。

主イエスの昇天後、残された弟子たちは、各自主の御言葉を宣べ伝えてまいります。その道のりこそ、「自分の家族の者が敵となる」(10:36)ほど厳しいのだと、主イエスは言われるのです。

しかし、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(9:36)、そのような社会の現状を、主イエスは断腸の思いで見据えられます。そして、家族の絆にさえ亀裂が生じ、世の中に「剣をもたらす」こととなろうとも、神の御心を宣べ伝えるように、弟子たちを励まされるのです。神なき世を生きる時、人は朽ちる何かに頼るほかありません。だからこそ、人々の間から取り去られていた“神の本来の御心”を、主イエスは教えられました。「二羽の雀……の一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな」(10:29-31)と。

時代が流れようとも、力を持つ者が上に立ち続けています。けれども、神が小くされた者にこそ目を向けられ、主イエスもまた彼らと出会われたことを思い起こしたいのです。私たちは、その場限りの調和を優先するのではなく、分裂を恐れずに、声を発する者とされたい。主イエスと共に働きを担う者として招かれていることを覚えたいのです。

さて、本日の御言葉の直前には、主イエスが「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」(11:20)とあります。

私たちが「旧約」と呼ぶ聖書には、かつて神の審きによって滅ぼされた町々について記されています。主イエスは、それらの町の名を持ち出し、「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。」(11:23)と、言われました。罪深いことで有名だった町でさえ神に立ち帰るほどの御業が現わされているのに、悔い改めることのない人々の“頑なさ”を、主イエスは明らかにされているのです。

12人の働き手を選び、彼らと共に宣教の旅に出たものの、人々は悔い改めなかった。人の目には全てが徒労に終わったかのように見えるその時、主イエスは次のように祈られました。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(11:25,26)。

私たちは、後に主イエスが十字架にかけられることを聖書より伝えられ、知っております。イザヤ書には、次のように記されています。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」(53:2,3)。

まさに、人々だけでなく最も近くにいた弟子たちにさえ見捨てられ、十字架を背負われる主イエスの御姿そのものです。主イエスは御自身の正体を隠されたまま、人々の憎しみを一身に受け、息を引き取られることにより、預言者イザヤの言葉を確かに果たされたのです。

同時に、私たちは、その三日後に主イエスが復活されることを知っています。聖書は、この復活こそ、“真に果たされるべき神の御心”なのだと告げています。ここに、神に遣わされた方でありながらも、主イエスが御自身の素性を隠される理由があるのです。世の人々は、主イエスを拒否し、敵意を向け、「十字架につけろ!」と叫ぶこととなります。しかし、神によって彼らの頑なさが用いられ、神の真の御心が果たされることとなるのです。

「知恵ある者や賢い者」とは、宗教指導者たちを指します。彼らは御言葉を学び、考え、律法を遵守する道を選びました。正しく、清く、尊敬されることに固執する宗教指導者たちは、主イエスによって痛いところを突かれたことにより、悔い改めに招かれつつも頑なで在り続けました。そして、人々を扇動して主イエスに敵意を向けさせ、十字架にかけ、“敗北者”に仕立て上げたのです。指導者たちから学ぶほかない民もまた、神の御心より離れる道を歩むこととなりました。

だからこそ、主イエスは、御言葉を聴こうと集まった者たちに対して、御自身の出処について、隠されることなく明らかに話されたのです。

「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(11:27)。

神お独りのみが主イエスを知っておられるとは、父なる神と主イエスとが、強固に結ばれているということです。人が神について知り得ないならば、主イエスを通して、教えていただくほかありません。「知恵ある者や賢い者」は、その御言葉を退けました。だからこそ、「幼子のような者」として、御自身の語る御言葉に聴くように、主イエスは招かれるのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11:28-30)。

「重荷」という言葉は、旧約で26回、新約で9回出てきますが、その用いられ方は様々です。使徒パウロは、重荷とは“自らが背負う悪や罪だ”と言っています。また、使徒言行録15章28節で、“聖霊と集会によって定められた信徒としての務め”を重荷と呼んでいます。苦役ではなく、使命をも重荷と表現されることを知らされます。辞書には、「重い荷物。能力をこえた大きな責任。」とあります。物質的な荷物や、精神的な苦悩、与えられている重い務めなど、重荷は人によって異なります。

しかし、主イエスは、その重荷を背負ったままの姿で、「だれでもわたしのもとに来なさい」と招かれました。注目すべきは、重荷をすべておろすのではなく、新たに軛を負うように言われていることです。軛とは、2頭の牛で耕作機を曳く際、相互を繋ぐために首にかける木枠のことであり、軛を用いることで1頭にかかる負担が少なくなるのです。すなわち、主イエスの招きに従う者は、これまで孤独に背負っていた重荷をおろし、「負いやすく……軽い」と言われる主イエスの軛を負うこととなるのだというのです。人生の片棒を、主イエスによって担われるということでありましょう。

社会は、頂点を目指すために人を競争の中に置き、あらゆる重荷を一人ひとりに負わせます。しかし、最も低い場所に立たれる主イエスは、誰も望まないその場所にこそ、真の安らぎがあること教え、「だれでもわたしのもとに来なさい」と、招かれます。肉体的にも、精神的にも、社会的にも重荷を負わされて十字架にかかられた主イエスだからこそ、私たちの背負う物の重さを知っておられるのです。

主イエスによって片棒を担がれる者は、同時に、耐えられなくなる時には励ましが、傷つく時には癒やしが語られ続けられます。だからこそ、世の人々が敗北と見ようとも、主イエスのおられる場所に共に立ちたい。主の御前で重荷をおろし、「負いやすく……軽い」と言われる軛に繋がれることで、真の安らぎに与る者とされたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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